連載小説
連載小説「泡」 第一部「地上」第12回 Posted on 2025/09/23 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第一部「地上」第12回
俺は狐につままれたような気分で、ソファに座り直し、首を傾げながら、携帯を睨みつけた。どうやら、昨夜、帰って来て、そのままソファの上で寝てしまったようだ。意識が少しずつ繋がりはじめ、じわじわ現実に連れ戻されてきた。これは夢じゃない。携帯を再び、耳に押し付け、
「あの、ミルコさん、ですか?」
と恐る恐る訊き返してみる。
くすっとはにかむような笑い声に続いて、
「そうよ、知らない番号から着信が入ってたから、しゅう君しかいないと思って、かけ直してみた」
と、掠れたセクシーな声音が俺の鼓膜を擽ってきた。
「あの日、タキモトさんに会いました。ミルコさんだと思って、玄関に行ったら、男の人が立っていて、なんか、不思議な感じの人」
「どんな風に不思議でした?」
「つかみどころがない・・・」
「そうなのよ。ずっとつかみどころがないの」
俺は、その瞬間、とんでもないことを思い出してしまう。寝ぼけていたが、一瞬で、跳ね起きてしまった。
「タキモトさんが、ミルコさんは5年前に死んだって・・・。生きてますよね? いや、嘘だと思いましたが、一応、確認していいですか? あの、幽霊かもしれない、から・・・生きてます?」
深い眠りに落ちていたので、しかも、夢の中でアカリに拳銃を頭に押し付けられていたせいもあり、何をどう聞いていいのか、判断がまとまらず、まぬけな聞き方を返してしまう。
「死んだ、と言えば死んだ」
「どういうことですか?」
「あの人の中でわたしは死んだってことでしょ? それを言うならば、しゅう君、驚かないでね、タキモトこそ死んでます」
自然と眉根に力が籠った。火花が飛ぶように脳のどこかで、小さなショートが連続的に起こった。まだ、夢の中にいるのかもしれない。
© hitonari tsuji
「すいません。あの、俺、あんまり頭よくないから、バカにするなら、やめて貰えます?」
「ごめんね。バカにはしていませんよ。ただ、ほとんどの人間は、死んだのに生きていると思っている人が結構いるのも事実で、死んでるか生きているかって、そんなに重要なことじゃないのにね。タキモトがわたしを死んだ、と思い込んでいるのは、わたしたちが顔を見合わせて会うことがないからです。詳しいことはまた別の機会に話しますが、彼は現実的な世界に生きており、私はそうね、真逆な場所に生存してる。もしかすると、実際はその反対かもしれないんだけれど、それはどっちでもよくて、二人は夫婦を続けながらも、平行世界で存在しあっており、お互い会うことがない夫婦なの。だから、彼の中では、わたしは死んでいるんだけれど、わたしの中でも彼は死んでいます。でも、なぜか、しゅう君はわたしたち両方と話が出来る人間ということになるのかな。図らずも、そうだと分かった以上、わたしたちはあなたの人生にこれからもますます介入し続けることになるんだけれど、いいよね」
俺は電話を切るべきか、悩んだ。ミルコが何を言っているのかさっぱり理解することが出来なかったし、彼女の発する言葉はどれ一つとっても俺の頭の中で意味の輪郭さえ拵えることがなかった。でも、他にすることもないし、今は目が覚めたばかりでぼんやりしているし、疲れもたまっており、現実からは逃避しておきたかったので、もう少しだけ、ミルコと繋がって、このこんがらがった糸を解くゲームの中に身を委ねていたい、と思うのだった。
「しゅう君、昨日、一瞬、会ったよね? 分かった?」
「え、あー、やっぱり。地下のクラブで、・・・あれ、見間違いか、と思ってました。ミルコさんだと思いましたけれど、あまりにストロボが眩しくて、見失っちゃいました。でも、どうして、あんな場所に?」
「縁があるのよ。たまたま、がこれほど続くのに、理由が必要ならば、それを縁という言葉で説明することが出来ます」
「縁、あれも縁なの? あんなにたくさん人がいたんだから、確かに、あの瞬間を縁と言われればそうですね」
「ええ。出会わないのも縁です。80億人以上の人間がいて、出会う確率は奇跡みたいに思うでしょうが、実際は、縁は自ら引き寄せ合っているもので、しがらみ、とは異なるのよ。わたしたち、この物語の登場人物はすべて、縁によって、つながっている。どこでどう出会おうが不思議はない。テレビドラマみたいに、街角でばったり出会うことが普通な世界もまた、この世には存在しているということ。証拠は、その逆の人たちが無限にいるということを考えればわかるでしょ? 縁のない人とは一生出会わない。一生関わらない。一生の中で出会える人の数には確実に限りがある。これこそ縁の力です」
難し過ぎて、俺にはよくわからない理論だった。俺が半殺しにするやつも、縁、ということになるのか。俺は思わず苦笑してしまう。
「そうよ、それも間違いなく縁」
「え、聞こえました?」
「たぶん」
今度は、ミルコが苦笑してみせた。
「あなたが、アカリちゃんの腕を掴んで外に出たのも見てたわよ。あの子がアカリさんだって、すぐに分かった。かわいい子ね。でも、カルマが深いわ、あの子」
「カルマ?」
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「ま、いいです。見えない力が強いと思っておいて。あの横にいた男の子も、ただものじゃなさそうだけれど、ああ、しゅう君の周囲には不思議な縁を持つ人たちが集ってる、簡単に結論づけると、そういう運命。わたしもそこに含まれているのだけれど」
そう告げると、ミルコは笑い出した。不気味な笑い声だった。携帯を通して聞いているというのに、頭の中にいるミルコが笑っているような響き方。耳の傍を飛び回る虫の羽音を追い払うように、俺は思わず手で見えない力を払ってしまった。
ミルコが今日、会いたい、と言うので、バイトだから難しい、と伝えたら、この街で一番美味しい焼き肉をご馳走する、と言われたので、1時過ぎならたぶん行ける、と返答をして、電話を切った。焼き肉屋の住所が直後にSMSで送られてきた。野本に確認をしたわけじゃなかったが、最近、まともに食事をしてなかったし、脂ののった焼き肉を腹いっぱい食べたかった。失恋して落ち込んでいるくせに、食欲がある奇妙。死ぬとか、生きるとか、大げさな言葉が飛び交ったが、いったい、俺とアカリの間には、どんな縁が在るというのだろう。
携帯の充電をし、キッチンに立ち、冷蔵庫の中を確認すると、呑みかけの炭酸水のペットボトルがあったので、取り出して口をつけたら、すでに炭酸は消えてなくなっていた。泡の命は儚い。あの日の勢いあるシャンパンの泡を思い出した。でも、無性に喉が渇いていたので、飲み干すことになる。その時、玄関をノックする音がした。
このアパートはペントハウスだから、郵便受けは地上階にあるし、よっぽどじゃない限り、ここまで登って来る奴などいない。アカリが戻って来たのかもしれない。いいや、ならば、鍵で開けることが出来るはずだ。誰だろうと思って、ちょっと警戒しながら、ドアを開けると、眩い光の中に傾くような感じでアケミが立っていた。
「しゅうさん、いきなり来ちゃって、ごめんなさい。ちょっと相談したいことがある。アカリちゃんが、危険なの」
次号につづく。(ええと、明日になります)
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辻仁成、個展情報。
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パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。
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1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。
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posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。