連載小説
連載小説「泡」 第一部「地上」第14回 Posted on 2025/09/25 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第一部「地上」第14回
なんとなく、嫌な予感はしたのだけれど、暇だったし、飲み足りなかったし、シャンパンをもう一度飲みたかったし、食い逃げというわけにもいかないし、好奇心も手伝って、再び、俺はミルコとタキモトが暮らす高層マンションの、あの角地にある見晴らしのいい最上階のリビングルームを訪れることとなる。繁華街はあんなに薄汚く、ごちゃごちゃしていて、しかも、よく分からないような輩がうろうろしているというのに高層にあるこの部屋から眺めると、ネオンや灯りが混ざり合って内側から発色する巨大な光り輝くアメーバのよう。前回、日中に見降ろした、穏やかな都会の風景とは異なり、夜は街全体が一つの生命体のように蠢いている。バルコニーに小さなテーブルと椅子があり、俺はミルコさんと夜景を眺めながら、そこで勢いのいい強い泡を飲んだ。
「余計なことですけれど、タキモトさんは本当に帰って来ないですよね?」
「ええ。私がここにいる時には、帰ってきませんから、どうぞ、安心して。どこにいるか、お互いわかる仕組みなのよ」
俺はミルコの横顔を見つめながら、「ご夫婦でエアタグでも持ち歩いている、とか?」と訊ねてみる。ま、エアタグじゃないけれど、アプリかな、とそっけない返事が戻って来た。
「余計なことばかりですいませんが、じゃあ、今、ご主人は、どこにいるか分かるんですね?」
「調べたら分かるんだけれど、プライベートだから、知りたくもないし。彼はたぶん、彼が一人を満喫する部屋にいる、と思います。ここは彼にとって仕事場だから、主に昼間、絵を描きに来るだけ」
その先は聞いちゃいけないのかな、と思ったので、この話題にはそれ以上、触れないことにした。焼き肉をたらふく食べた上に、シャンパンのせいで、胃袋ははちきれそうだった。いろいろと訊きたいこともあったが、なんとなく、眠たくなってきた。携帯を取り出し、覗くと、4時を過ぎている。もうすぐ朝がやって来る。アケミからラインにメッセージが入っていた。『アカリが行方不明。帰ってこないの。そっちには行ってないですよね? 戻ってきたら、また状況を知らせるね』どこをほっつき歩いているんだか・・・。
「ミルコさん、あの、ご主人さんって、何をされている方なんですか? 有名な投資家とか?」
「いいえ、絵描きよ」
「ああ、そうか、だから、奥に、絵の部屋があったのか」
「覗いたのね」
「ごめんなさい。何してもいいと言うから、探検しちゃいました」
「いいわよ。別に、見ても減るものじゃないから」
「たくさん、絵があった。有名な画家なんですか?」
「いいえ、無名に近いです。才能はあるけれど」
「無名? じゃあ、お二人はどうしてこういうリッチな暮らしが出来てるわけ?どちらかが資産家のご子息とか?」
© hitonari tsuji
「いいえ、ぜんぜん」
ミルコが、俺の顔を微笑みながら見つめてくる。癖のある長い髪の毛が、顔を隠していて、全体の輪郭はちょっと分からない。特徴的なのは目で、カラコンを入れているからか、グレーがかった瞳をしていて、長い付け睫毛が目を黒く縁取っており、じっと見つめられると目力があって、どうしていいのか、分からなくなる。唇はメイクのせいかもしれないが、はっきりと輪郭が描かれており、綺麗なんだけれど、妖艶なマダムを絵に描いたような顔立ちをしていた。よく言えばアメリカの映画俳優のようで、悪く言うとマネキンのような顔立ちだった。
「そう言えば、タキモトさんが俺を雇いたいって言ったんだけど、今の3倍の給料で雇うからって・・・」
ミルコが笑いだす。「あの人そんなこと言ったの? 3倍って、何を根拠にそんな数字が出たのかしら。好奇心が沸いただけで、意味はないと思う」俺も笑った。「ラーメン屋もバカにならない給料貰えています。俺、一応、店長だから」無名の画家が、俺に3倍の給料を払うという意味も分からなかったが、それ以上訊いてもしょうがないか、と思って、これもここで話を終わらせることにした。
「もうすぐ、朝ね」
「そうですね。そのうち、あっちの方角に太陽が昇り始めます」
東の方角を指さしてみた。ミルコが立ち上がり、バルコニーの欄干に手をついて、こう言いだした。
「お願いがあるんだけれど、無理なら、ってか、嫌なら、断ってくれていいんだけれど、もしよかったら、今夜、一緒に寝て貰えないかしら」
ミルコがこちらを振り返る。俺とそんなに身長は変わらないかもしれない。スタイルは抜群で、ボディコンシャスなワンピースを着ていることもあり、凹凸がくっきりとシルエットを描き、俺の目に飛び込んできた。
「その、しゅう君、勘違いしないでね、変なことは絶対にしないから、添い寝してもらえないかって、こと。しゅう君の傍で眠りたい。時間を奪うので、支払いはちゃんとします。アルバイトだと思って引き受けて貰えないかしら」
「何、言い出すんですか、ダメでしょ。ご主人いるのに」
「でも、絶対に、変なこと要求しないし、それは、わたしも求めてない。でも、夫とも一切そういう関係ないし、人の温もりが欲しくなることって、普通に、あるでしょ。わたしも、まだ、40歳だから、でも、こんなおばさん、嫌よね。それにわたし、大柄だし」
「いやいや、素敵ですよ。40歳なんだ。女性の年齢って、分からないですよね。もっと若く見えます」
はじめて会った日、記憶が曖昧だが、泥酔している俺の唇を塞ぐ、分厚い、たぶんミルコの唇の感触が頭の片隅に残っていた。『アカリさんだと思っていいのよ』とミルコが言って、俺は泣きながらミルコの身体にしがみついた。でも、これはよくない。アカリとの関係を取り戻したいのに、これはよくない、と俺は自分に言い聞かせた。
「手も触れないし、同じベッドで、明るくなるまでゴロンとして貰えるだけでいい。その、言いにくいけれど、わたしね、死ぬほど、寂しいんです」
「わかりますけれど、よくありませんよ」
それ以上の言葉は続かなかった。確かに、ご主人とは、別の次元でお互い生きているようだし。エアタグでお互いの居場所を監視しあい、一緒の空間にいない生活が続いているのなら、人の温もりを求めたがるのも当然だろう。
「俺は無理だけれど、添い寝? そういう仕事をしている子なら、仲間にいるから、紹介しましょうか? それなりにかっこいい奴ですよ」
「しゅう君、わたしのことバカにしないでね。しゅう君だから、お願いしているの。絶対、身体に触れないし、襲ったりしない。ただの添い寝のバイト。時々、お願いしたいの。一緒に寝ることで、わたしは、生きられる。生に浸ることが出来る」
確かに、一瞬であろうと、最も苦しい時期を支えてくれたミルコさんの孤独を埋めるお礼だと思えばいいか、と俺は思った。それに、俺だって、今は、苦しいし、寂しい。
「じゃあ、お金はいりません。お金、貰うともう会えなくなるような気がするから、でも、そのかわり、時々、またこの泡を飲ませてください。それでどう?」
ミルコが笑顔になった。笑顔がチャーミングな人だった。不意に恥ずかしくなってきた。
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勝手知ったるバスルームでシャワーを浴び、例のバスローブに着替え、先に灯りの消えた寝室のベッドの中へと潜り込んで、ミルコが来るのを待った。ミルコもシャワーを浴び、バスローブを纏ってここに来る。おかしな成り行きだったが、これは仕方がない、と割り切ることにした。アカリは行方不明、どこかで誰かとこんな感じになっている可能性だってある。
もしも、仮に、ミルコが言うことが嘘で、明け方、タキモトが戻って来たとしても、この関係自体は変わらないような不思議な自信があった。あまりに奇妙な事態ではあったが、この世には様々な人間がいる、と俺はその時、割り切ってもいた。アカリだけ、好きなことをして、俺が真面目な抑制の中で我慢しているのも、変な話じゃないか。俺だって生きているんだ。悲しいし苦しい。ミルコさんには、多少の情が移っている。あの人は、水面に映る月影のような儚い何かがある。色で例えるなら深い青だ。もしかしたら、彼女のオーラは、藍色かもしれない、と思った。そして、そのうち、俺は、いつしか深い眠りの中に落ちていた。
激しい睡魔の中にあったが、ミルコらしき人間が、布団の中に入って来るのが分かった。意識の片隅で、ミルコだと分かったが、そのまま、眠りの中へと落下してしまった。いろいろなことがありすぎて、仕事も忙しかったし、焼き肉とシャンパンのせいもあった。ふっと意識が遠ざかった。
夢の中で、俺は、それが夢だとわかった。あり得ない感じで、たぶん、天井のあたりから、俺がこのベッドを見下ろしているからだ。その夢の中で、ミルコは俺の身体にがっしりと抱き着いていた。大きな身体の艶めかしい女が、俺の筋肉を包み込んでいる。掛布団は剥がされ下に落ちていたし、バスローブも脱がされ、寝ている俺をその女は上から抱きかかえていたのだ。ただ、嫌らしいというよりも、中世の宗教画のように、卑猥ではなく、美しい眺めであった。同時に、俺は夢の中で夢を見ていることを理解出来ていた。
そして、次に意識が戻った時、俺はベッドの中にいたし、掛布団はかかっており、バスローブもちゃんと羽織っていた。でも、俺の横にはミルコの姿はなく、すでに、夜は明けていた。携帯を探しにリビングルームに行くと、テーブルの上にまたしても、置手紙があった。
『しゅう君、よく寝ているから、起こさないで、仕事に行きます。昼過ぎには、タキモトが戻って来るから、それまでには出た方がいいでしょう。また、連絡しますね。今日は本当にありがとう。ミルコ』
慌てて携帯を覗くと、11時30分だった。寝過ごした、と吐き捨て、着替えるために風呂場に急ぎ、衣服をかき集めていると、再び、玄関の方で、施錠を外す音が聞こえた。
次号につづく。(ええと、明日の予定)
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辻仁成、個展情報。
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パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。
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1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。
ラジオ・ツジビルはこちらから!
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posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。