連載小説

連載小説「泡」 第一部「地上」第18回  Posted on 2025/09/30 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」  

第一部「地上」第18回 

   俺は放心した状態で黙々とラーメンを作り続けた。魂は抜かれて虚空のようだったが、身体が記憶に忠実に動き続けた。
   「はい、一番さん、アサリ塩麹頂きました」
   ラーメンの器に茹で上がった麺を丸めて置き、野本さん秘伝の塩麹ペーストを中心に載せ、フライパンでニンニク油と一緒に高火力で炒めた東京湾のアサリをそこにぶっかけ、最後に豚と魚介で丁寧にとったスープを回し掛けし、さっと刻んだゴマの葉を散らしたものを、こぼれないようカウンターの上に置いた。
   「はい、一番さん出来」
   いつものような威勢のいい声にはならない。つい、アカリのことを思い出し、心が沈んでしまう。店を閉め、翌日の仕込みをしていると、野本店主がやって来て俺の肩を叩き、軽く呑むか、と言った。悩んだが、家で一人暗くなってもしょうがないので、誘いを受けることになる。
   店の近くの朝までやっている野本の行きつけのバーで呑んだ。いろいろと訊かれたが、うまく答えられなかった。
   「ま、まぁ、しゅう、長い人生やから、いろいろとあるって」
   と野本が俺を慰めた。
   俺よりも一回りちょっと年上、40歳前後だと思うが、高知から上京しこの街にラーメン屋を立ち上げ、行列が出来る人気店にまで成長させた。坂本龍馬が好きで、男気がある。面倒見もよく、悪く言う人間はこの界隈にはいない。アカリも野本店主のことが大好きで「野本の娘です」と店の常連たちに自己紹介をしたこともあった。三人で呑んだこともある。
   野本は仕事が終わると、パトロールと称して、朝までこの辺のバーをハシゴして飲み歩く。もめ事が嫌いで、悪口は言わず、いつも誰かを宥める側に回っていた。家族の気配はない。昔は、美人の奥さんがいたそうだが、酒と仕事のし過ぎで、逃げられてしまった。仕事がなく、ふらふら生きていた俺に「ぼんやり生きてないで手に職をつけたらどうだ」と声をかけてきた。
   その時に食べさせてもらった野本のラーメンが俺の生き方に新しい息吹を注ぎこんだ。この仕事やってみたい、と思った。

連載小説「泡」 第一部「地上」第18回 

© hitonari tsuji



   「結局、人間は、手に職を付けた者が勝つ。腕が上がれば、当然、金も増える。成功報酬だ。裸一貫で、なりあがることが出来る。それがラーメン」
   野本は俺にとって、人生の手本のような存在となった。だから、一生懸命、野本のやり方を見習い学んできた。
   「しゅう、学ぶな。盗め。うまいラーメンを作ることだけ考えろ。それがいつか、お前の財産になる」
   目的もなく、うつらうつらしていた人生に、ラーメンを作るという芯が出来、いつか、自分の店を持ちたい、と思うようになった。命令されたり、指示されるのが嫌いな俺だったが、野本の言うことだけは真剣に耳を傾けるようになる。アカリといつか結婚をして、「黒点」の暖簾を分けて貰い、自分の店を出すのが夢となった、のに・・・。
   「なんでこうなっちゃったのか、わかんないんすよ」
   「そんなの、当たり前」
   「何が」
   「しゅう、思う通りにならないのが人生だから、当たり前」
   野本が自分のキープボトルを掴んで、空になったグラスにウイスキーをなみなみと注いだ。酔える気分ではない。どこでボタンの掛け違いをしてしまったのか、俺は目元を押さえながら、考え込んだ。出るものは、ため息ばかり・・・。
   「しゅう、アカリはいい子だけれど、今は、ちょっと時間が必要。ま、呑め。呑んで寝て、ちょっと頭を冷やせ」
   呑んだが、アカリのことは忘れられなかった。後悔と悲しみが交互に襲ってきて、苦しい時間を漂うことになる。まもなく、野本店主が酩酊気味になったので、店を出ることになった。
   「な、いいだろ、もう一軒、つきあえ」
   と野本が呂律の回らない口調で駄々をこねた。しょうがない、つきあうか。火入れ看板が立ち並ぶ路地に出ると、生臭いこの街の風が吹き抜けていった。ふと、気配を感じて顔をあげると、目の前に立ちはだかる男がいた。見覚えがあった。そいつは、俺を睨みつけている。アカリの知り合いで、ヒロトとかいう名前の、この辺を根城にする半グレだった。アカリに抱き着き、へらへらしやがったので、ボコボコにしたことがあった。その後、DJのハラグチがあいだに入って、一応、手打ちとなった。

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© hitonari tsuji



   「なんだよ、また俺にサラされてーのか。どけ」
   俺は行く手を遮るヒロトの前まで行き、見下ろしてやった。すると、暗がりから、ヒロトの仲間たちがぞろぞろと出てきた。4,5人はいる。酩酊する野本が一緒なので、逃げるわけにもいかず、身動きがとれない。どうするべきか、素早く周辺を確認する。野本は電柱に凭れ掛かって、なんだなんだ、てめーら、と叫んでいる。その声に反応するように、酔った通行人らが、一人二人と立ち止まってはこちらを振り返った。
   「しゅう、おめーさ、アカリにふられたんだって? あん? ざまーねーな」
   ヒロトが大声を張り上げた。ふられた、という言葉が胸の中心を抉る。
   「・・・」
   「おめーみたいな腰抜けじゃ、ふられて当然だな。可哀そうなしゅうちゃん、おらら、なんだよ、泣きだすなら、今だぜ、ベイビーちゃん」
   刺々しいヒロトの声が路地に反響した。俺は奥歯を噛み締めた。アカリの奴、なんでこんなバカに話した!? 
   頭に激しい血が上っていくのが分かった。狭い道なので、人の流れを俺たちが塞ぐ恰好となった。立ち飲みスタンドで呑んでいた連中もジョッキを片手にこちらを振り返る。中には、炊きつけてくる阿呆もいた。俺は素早く状況を判断しなければならなかった。ヒロトの仲間たちが、逃げられないよう、俺を取り囲んだ。
   「ほら、どうしたんだよ、しゅうちゃんよー。みんなの前で土下座すれば許してやってもいいんだぜ。やれよ、ほら。てめ-みたいな腰抜け野郎に、アカリのようないい女はもったいねー」
   こいつだけは許せないという怒りに火が付いた。次の瞬間、俺は笑っていたヒロトの顔の中心目掛けて握りこぶしを叩きこんだ。こぶしはヒロトの眼下部を直撃し、ヒロトは悲鳴を上げながら、ひっくり返った。次に、酔っている野本に危害が加わらないよう、奴の肩を力任せに押し、スタンドの中へと突き飛ばしてから、その店の前に並べられていたワイン瓶一本の首を掴み、電柱で底部を叩きわり、襲い掛かって来た一人の頬を切りつけた。瞬時の出来事だったが、真っ赤な血が噴き出し、それを見た見物人からどよめきが起こった。他の半グレたちが日和った隙をついて、俺は奇声を張り上げながらビール瓶を振り回して追い払い、その勢いで、顔を押さえて地面で転がるヒロトを蹴り上げた。容赦なく蹴り上げた。逃げ腰になっている奴らを背後からひっ捕まえて、怒りに任せて殴りつけていった。我慢していた大きな怒りが俺を凶器に変えた。腹の底からマグマが噴き出すように、身体の深部から胴間声があふれ出た。
   「アカリ! アカリ!」
   この怒りを抑えることが出来ない。ヒロトの仲間たちが雲散霧消した。俺の足元にヒロトが取り残され、転がっていた。顔面を押さえて、声にならない呻き声を振り絞って、苦しんでいた。
   「くそ野郎」
   こんな奴らに負けるわけにはいかない。こんなこと、泡のような出来事に過ぎないのだ。けれども、『アカリにふられたんだって?』と言ったヒロトの言葉が俺の頭の中で吹き荒れ、地上に仁王立つ俺を苦しめるのだった

次号につづく。(間違いなく、明日です)

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© hitonari tsuji



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辻仁成、個展情報。

パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。

1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。

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辻仁成 Art Gallery
TSUJI VILLE
自分流×帝京大学



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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。