連載小説

連載小説「泡」第一部「地上」第19回  Posted on 2025/10/01 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第一部「地上」第19回 

   窓ガラス越しに差し込む、迎えのビルの屋上に設置された巨大なコカ・コーラの電光掲示板のライトが室内を赤く明滅させている。外の喧騒が遮断され、黒猫もいない、アカリもいない、鼓膜が押されるような静寂に包まれた室内で俺は息を潜めてしゃがみこみ、ヒロトを殴りつけた手の甲を労わるようにそこをゆっくりと揉み続けた。肉体の熱気が落ち着いてくるに従って、『アカリにふられたんだって?』という言葉が再び俺を苦しめはじめる。アカリは周囲に俺とのことを喋ったということになる。まさか。じゃあ、なんで、ヒロトがそんなことを知っていたんだ・・・。心を捧げてきたのがこんな女だったのか、と思うと、どうしようもない悲しみに心が引き裂かれそうになった。
   携帯に着信があった。暗い室内の中ほど、放り投げられた携帯の画面が輝いている。アケミ、という文字が躍る。様子を見たが、鳴りやまないので手を伸ばした。
   「しゅうさん、アケミ」
   「わかってるよ」
   「また、やらかしたんだって、ヒロト、病院行き」
   舌打ちしてから、俺は、窓の外へと視線を逸らした。赤いライト・ウエーブが窓の向こうで波打つ。俺の心模様と重なる。
   「注意した方がいいわよ。ニシキさんの耳にも入ってる」
   「ニシキに言っとけ、文句あるなら、相手してやるからって」
   「でも、しゅうさん、ニシキさん怒らしたら、大変なことになるよ。一本電話いれとくか、それか、ハラグチさんにもう一度仲介頼むとか?」
   「アケミ、俺を脅かすなら、お門違いだぞ。脅かすのは俺だ。覚えとけ。今の俺は失うものなんかないんだから、ニシキも覚悟しとけって」
   アケミが黙ってしまった。ニシキが手ごわいのは分かっている。この街から出た方がいいのかもしれない。アカリの愛は軽薄で、裏切られたことも分かったし、ここで揉め続けると、野本にも迷惑がかかる。もう、終わりにしよう。別に、ここだけが世界じゃないし、さすがにしみったれた未練も薄れつつある。あの大粒の涙と共に、俺の心は消え去った。次から次に噴き出す泡をいちいち相手にして生きていてもしょうがない。泡は泡だ、出来てはすぐに消え去る幻。出来た瞬間は美しいが、瞬く間に消え去る儚いもの。夢や、幻や、影のように、いつかは必ず消えていく美しいが虚しいものたち。

連載小説「泡」第一部「地上」第19回 

© hitonari tsuji



   アケミに聞きたいことがひとつあった。もはや、どうでもいいことだったが、逸る気持ちを抑制できず、言葉が勝手に飛び出した。
   「どうして、ヒロトは、知っていたと思う?」
   ヒロトが『アカリにふられたんだって』と俺を煽ったことを、アケミに伝えた。なぜ、アカリと俺の問題をあいつらが知っているんだ?
   「なんでかしら」
   室内は暗かったが、広告塔の真っ赤な光に溢れ、それが今日に限って、血の色と重なった。アケミは考え込んでいる。おしゃべりなアケミが言葉を選んでいるせいで、俺は蠢く赤いライトの中でやきもきした。
   「もしかすると、アカリはクラブの仲間なんかに相談しちゃったのかも。そう言えば、アルファベットのAと書いて、A子っていう名前の子、知ってる? その子とヒロトは昔、付き合ってた」
   「A子? 知らねー。なんで、そんな奴に相談する?」
   「アカリ、悩んでたから」
   「でも、まだ、完全に終わったわけじゃなかったし。人にべらべら言うことかよ?」
   「ヒロトも終わったと知って言ったわけじゃなく、小耳に挟んで、憶測で挑発したんじゃないかしら」 
   くそ、と俺は吐き捨てた。どちらにしても、恥をかかされたのは事実だ。その上、こんなことをアケミに相談している自分も不甲斐なさ過ぎる。俺は吐き捨てるようなため息をこぼしてしまう。
   「しゅうさん、どうする? しばらく、この街、出た方がいいかもね」
   アケミの心配は俺が考えていたことと一致した。狭い世界なので、ある程度、誰もがバランスを保って生きている。その均整を破ってしまった。この辺でうろちょろするのは危険だし、アカリにはコケにされたし、ここが潮時かもしれない。
   「・・・」
   「しゅうさん、なんか、オーラが薄れているかも」
   「ちぇ、虹はいつか消える運命なんだよ」
   俺は携帯を耳に押し付け、どこか、負け犬のように俯いていた。何もかも、一瞬で失ってしまったような激しい後悔と苦悩の中にあった。
   「わたしはずっとしゅうさんの味方だからね。何かあったら連絡ください。飛んで行くわ」
   俺は無言で通話を切り、携帯をソファに放り投げた。疲れ切ってしまった。俺はごろんと横になり、目を閉じた。

連載小説「泡」第一部「地上」第19回 

© hitonari tsuji



   もう何年も、長い歳月が流れたような、そういう時間の亀裂を漂い続けているような、奇妙な落下の中にいた。今までで一番長い夢を見たかもしれない。流転する運命を必死で生き抜く自分。歴史絵巻さながらその夢の中心にいる。終わりのない長大な夢だったが、次から次に降りかかる出来事に振り回され、俺は夢の中で、幾度も荒波に呑まれて溺れそうになった。それでも、なんとか、岸辺に辿り着き、しかし、次の瞬間には荒波に襲われて沖へと連れ戻され、を繰り返す無限の地獄・・・。
   夢のしじまの中、微かに、どこからか携帯の着信音が聞こえてきた。溺れかけながら、俺はそれを掴み、耳に押し当てた。眩し過ぎて目が開かない。ものすごく眩しい太陽の光が室内に溢れていた。網膜が強く押される。誰かが耳元で叫んでいるが、どこかでまだ幻を追いかけているからか、言葉が脳の中で定着出来ずにいる。何を言っているのかよく分からない。泥濘の中でもがいているような夢の続きの中にいた。その声は洞窟の奥から届く、救出を求める人の叫び声のようでもあった。
   「燃えてんねん! 燃えてる!」
   次第に夢から醒めていく中で、言葉の輪郭が脳に突き刺さって来る。野本の声だった。野本は携帯の向こう側で叫び続けた。
   「燃えてんねん、店が! 俺の店、燃えてんねん!」

連載小説「泡」第一部「地上」第19回 

© hitonari tsuji



   俺が「黒点」に辿り着いた時は、すでに通りは封鎖され、大勢の野次馬が消防車や警察車両を取り囲み、焼けたラーメン屋を見上げていた。消化作業は終わり、消防隊員が片づけをしているところだった。ラーメン屋「黒点」の入り口当たりから天井までが真っ黒焦げになって、野本自慢の四国の一枚板で作った「黒点」看板はすっかり焼け落ちていた。野本は店の前で何か意味不明な言葉を喚きちらしながら、うろうろしている。俺は群衆に紛れて、その様子を遠くから見つめることしか出来なかった。何も言葉が出てこない。奴らが報復したのは間違いない。
   間抜けな太陽が頭上にあり、水浸しの路面を輝かせていた。放水によって大きな水たまりが出来ており、そこに焼けたラーメン屋の残影が反射していた。俺は俯いたまま、水たまりに映る焼け焦げた店舗の悲しい姿をひたすら眺め続けた。そこでせっせと働いていた日々のことを思い出しながら・・・。幻の太陽がその水たまりの中でも輝いていた。きらきらと宝石のように眩く美し過ぎる残酷な光景だった。俺は踵を返し、群衆の中へと潜り込んだ。消えてなくなりたかった。これは、俺のせいだ。もう、野本の前に顔を出せない。暖簾分けの夢も消えた。ついに、ここから消えてなくなる時が来た。地下街へと降りる階段を、地上目指して上って来る幸福そうな人々をかき分けながら、俺はゆっくりと下った。独特の匂いがする地下街に潜り込むと、ようやく、あの苦々しい太陽から遠ざかることが出来た。俺は地下道を歩き続けた。どこへ。あてがあるわけじゃない。でも、落ち着かない心を整理させる必要があった。降りかかった火の粉を自分の中で一つ一つ、消火させていく作業・・・。「黒点」は真っ黒だったが、俺の頭の中は真っ白だった。今は抗わず、影のように、ひっそりと地下街を歩き続けることにした。張り巡らされたねずみロードの中を、俺は亡霊のごとく彷徨い続けるのだった。

 第一部了。(たぶん、明日からか、第二部)

  
※本作品の無断使用・転載は法律で固く禁じられています。

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© hitonari tsuji



辻仁成、個展情報。

パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。

1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。

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辻仁成 Art Gallery
TSUJI VILLE
自分流×帝京大学



posted by 辻 仁成

辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。