連載小説

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第1回  Posted on 2025/10/02 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第二部「夢幻泡影」第1回 

   頭を冷やすために地下街を行ったり来たりした。どのくらいの距離を何時間ほど移動したのか見当もつかないが、突き当りまで行ってはまた戻り、人々の中に紛れては流れに従って、心が落ち着きを取り戻すまで、無為に彷徨し続けた。地下街の交差点なのか、広場なのか分からない、やや広めの空間で、ついぞどっちに行くべきか分からなくなり、その中心で、俺は立ち往生してしまう。方角さえわからなくなって、振り返り、もう一度振り返り、でも、戻るに戻れず、進むに進めず、ついに俺はそこで立ち尽くすことになる。急ぐ人たちが、立ち往生する俺を上手に回避していく。辺りを見回してみる。見慣れた地下街だったが、けれども、いつもより殺伐と感じる。
   誰もが止まらず移動していたが、一人だけ、壁際に座る人物がいた。よく見ると、その男は俺を手招きしている。それが俺に向けられた手招きがどうか、最初は、疑わしかったが、周辺を見回してから視線を戻すと、男は相変わらず手招きをしたので、やはり、俺に向けられたものだ、と理解出来た。俺とその初老の男との間を次から次に通行人が過っていった。俺はポケットに手を突っ込んだまま、眉根を寄せ、その男の所作を眺め続けた。頭の中は真っ白だったし、心は空洞になっていたので、うすのろな時に流されるまま、ただぼんやりと対岸を眺めることになる。
   いろいろな方向から地下道が合流する地点でもあり、エスカレーターも乗り入れ、デパートのような商業施設への入り口もあるため、人の流れが途切れることはなく、だからか、コインロッカーの横に陣取って、小さく手招きをするその男に対し違和感を覚えた。何か小さな箱のようなものに腰かけているようで、そこが彼の定位置なのかもしれない。何が入っているのかわからないが頭陀袋が横に放り投げられてあった。もしかすると衣類など日用品が入っているのかもしれない。賽銭箱とかはないので、浮浪者とは限らない。でも、その場所に溶け込むような恰好、色のない褪せたダボダボのコートを羽織り、ただ泰然と座している。招き猫のように、手をちょっと前にだし、手首だけ動かして、こっちへ来い、こっちへ来い、と合図を送って来る。それが難破船から届くモールス信号のように俺の心に届いた。俺はすぐ従うわけではなく、両手をズボンに突っ込んだまま、そいつを見下ろし続けた。すると、目の前をシャッターする人々の残影の向こう側に座る男の輪郭が網膜の中で、まるで前景のように突き出してきた。

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第1回 

© hitonari tsuji



   次に目が合うと、男がそれまでで一番強く、指先を動かし、こっちへ来い、と野球の監督が選手を呼ぶみたいに合図したので、何も考えることが出来ない今の俺は、その吸引する力に無条件に引き寄せられることになる。
   その男の前まで行くと、
   「今にも死にそうな顔をしてるな」
   と、太く強く響く声で言った。オペラのバリトン歌手のような野太い声だった。
   「ちょっとここに座って、あっちを眺めてみろ」
   あっちがどこか分からなかったので、一度、振り返ってみた。地下街の雑踏が広っていた。
   「そこじゃない。その高さからは見えない。高すぎる。ここに座れ」
   男が自分の横を指さした。段ボールが絨毯みたいに敷かれてあった。ここに? 座れよ、と男が目尻を下げて促した。
   「世の中の見え方が変わるから、座って。変えるきっかけを掴め」
   なんで、従ったのか、自分にもよくわからなかったが、そのはっきりとした物言いに心が勝手に従った、という感じだった。変えるきっかけを掴め? その響きに、抜かれた魂を戻してくれそうな迫力があった。どうせ、今は差し当たって目的もない。行く当てもない。俺は言われた所に腰を下ろし、男が「見ろ」と言った地下街の全体を眺めることになる。
   ところが、いくら待っても、男はそれ以上何も言わなかった。5分、10分が過ぎたが沈黙だけが流れた。何度か、確認したが、男はまっすぐ正面を見ているだけだった。ところが、そのうち、横に人がいること、そして、その沈黙が心地よくなりはじめる。
   「ここを通過する人たちは、そのすべての人に人生があって、またそれぞれ別の人とも繋がっており、相当に複雑なしがらみの糸で操られた運命の交差がそこにある。でも、たまたま偶然、今をこの地点で共有している。目の見えない人は杖をつき、地面に設置された点字ブロックを頼りに目的地を目指している。子供は母親に手を引かれて泣きながらついていく。会社員は次の取引現場へと急いでいる」
   初老の男は雑踏を見つめながら淡々と語った。俺は視線を地下通路へと戻す。行き交う人々を俺は静かに見上げる格好となった。
   「高さが違うと見え方が変わる。自分が変われば出会う人も変わる」
   男の声は地下通路の騒音の中でも、はっきりと輪郭を持って、俺の耳を誑かしてきた。また時間が流れた。確かに、歩いていた時に見えていたものとは異なる世界が広がっている。目に見えない力によって、全体が統制されているような、そこに見えざる者の何かの規則が働いているような気がしてきた。人々は無軌道に歩いていくが、ぶつかることもなく、線路を行き交う電車のように、見事に、障害物なる世界を通過していく。そのうち、目がどことは言えない一点で静止すると、通過する人々は、まもなく影のような感じで視界の中で薄れてしまった。断片的な話し声、リズミカルな靴音、遠くから届く駅のアナウンス、そういう雑音までもが、影のように、耳の中を淡く消えかかり、流れていった。
   「これは幻なんだよ。わかったか」
   男が言った。俺は返事を控えた。
   「その幻の中で、人間は苦しんでいる。たとえば、お前のように」

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第1回 

© hitonari tsuji



   俺は目を閉じてみた。視界が見えなくなると瞼の裏側に不思議な光のようなものを感じることが出来た。ノイズリダクション装置付きのヘッドフォンをしているように、そこから、一定の雑音が消去された。その中心に男の声が屹立している。
   「お前は自分が生まれた瞬間を知らないだろ? そして、おそらく、死ぬ瞬間も知ることはない。それはお前だけじゃなく、目の前のこの連中も全員一緒だ。今生きているすべての人間に共通すること。つまり、歳はとっても、生も死も知らないで生き続けることになる。自分が生まれた瞬間がない、ように、人間は死ぬ瞬間を持たないのだから、実は、永遠に生き続けることになる。これが真実だ。そして、この世界というものは、そのようなお前の頭の中に存在するものであり、簡単に言ってしまうと、幻想に過ぎない。生も死も人間が作った概念。だから、生きているすべての人間は生も死の瞬間も知らないことになる。結論を言えば、苦しんでいることも幻に過ぎない。なのに人間が苦しいのは、ひたすら概念に振り回されてしまっているからだ。概念を捨てられたら、お前は楽になる」
   よく意味が分からなかったが、しかし、こういう上からの意見が今は心地よかった。俺は目を開いてみた。再び、視界に現実と思われる雑踏が出現し、そこを人々の幻影が過っていった。
   「あの、じゃあ、俺はどうすればいい」
   ついに、俺は訊き返すことになった。世界が幻ならば、この男も幻ということになる。幻の回答を俺は待った。
   「まず、手始めに、固定概念を捨ててみよ」
   俺は笑った。横に座る初老の男を振り返ると、その男もほほ笑んでいた。それが、とっても柔和な神々しい笑みだったものだから、俺は逆に笑えなくなってしまう。
   「たとえば?」
   「たとえば、携帯を捨てる」
   しばらく考えたが、それは無理だった。でも、無理だと思う時点で、俺はこの人の言う固定概念から脱出することが出来ない、ということになる。
   「ダメそうだな、お前には」
   そう告げると、男は立ち上がり、じゃあ、着いて来いよ、と言った。俺も立ち上がり、従った。

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© hitonari tsuji



   男はコインロッカー横の立ち入り禁止と書かれた鉄扉を開けて階段を下った。すると間もなく、地下駐車場の一角に出た。そこから業務用のエレベーターに乗って、一番下のボタンを押す。俺たちを載せた大型エレベーターは鈍い鉄の音をゴォゴォと立てながら降下し、間もなく最下階へと到着した、そこを出ると、入り組んだ細い通路があり、どうやら格納施設のような場所で、初老の男は通路中央にあるマンホールの蓋を開けて、そこの手すりに摑まりながら、さらに下へと降りて行った。好奇心が沸いたので、従った。すると、俺たちは巨大な地下水路に辿り着いた。小ぶりの川ほどもある水路で、流れは急だった。その水路沿いに人が一人やっと歩けるような出っ張った通路があり男はそこを歩き続けた。すると、やがて、少し広い場所に出た。その先に、人工的な貯水池があった。天井に小さなライトが灯されており、それが無数、星のような感じで瞬き、宇宙空間に浮かぶ奇妙な水面をうっすら照らしだしていた。
   「時間は過去から未来へと不可逆的に流れている」
   「ふかぎゃく? 意味がわからねーよ」
   「逆戻りできないという意味だよ。でも、それは人間が作った概念で、実際は時間というのは存在しない。昨日と明日は一緒なんだ。すべては今この瞬間の中にある。過去とか未来に縛られているのは愚か者だ。過去は捨てろ。それは後悔だ。未来や夢なんか持つな。それはただの期待に過ぎない。逆に、今を切に生きろ。わかるか、お前に永遠があるとするなら、それは今にこそある」
   男はそう言い残すと、再び、来た道を戻っていくのだった。

次号につづく。(たぶん、明日です。体調次第で)

 
※本作品の無断使用・転載は法律で固く禁じられています。

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© hitonari tsuji



辻仁成、個展情報。

パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。

1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。

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辻仁成 Art Gallery
TSUJI VILLE
自分流×帝京大学



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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。