連載小説
連載小説「泡」 第二部「夢幻泡影」第3回 Posted on 2025/10/04 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第二部「夢幻泡影」第3回
行くべきか、いろいろと悩んだせいもあって、ヒイラギさんの店を出たのは、結局、電話を切って、1時間半後のことであった。道に迷いながら、マンションに到着し、立派なインターフォンでタキモトを探し、プッシュすると、声は聞こえなかったが、目の前の自動ドアが不意に解除され開いた。ミルコの声はしなかったが、勝手知ったる場所なので、ホールへと進み、そのまま、ドアが開いているエレベーターの中へと入った。行先の階のランプが光っていた。ドアが間もなく閉まり、エレベーターが浮上しはじめる。
『まず、タキモトはこの世に、生きていません。そのことは前にも言ったと思います。そして、私も、死んでいるのか、生きているのか、分からない存在だということも言いました』
とミルコは言った。このことは最初から一貫して彼女が言い続けていることだ。意味が分からない。どちらにしても、この茶番の真相を解明する必要はあった。最上階に着くと、廊下の突き当りにある、タキモトの家へと向かった。ドアベルを鳴らした。まもなく、鉄扉が開き、ミルコではなく、タキモトが顔を出した。
「しゅう君、わざわざすまないね」
「ミルコさんに呼ばれてきました。ミルコさんは?」
「ああ、いるよ。さ、中に入りなさい」
ぼくは言われるがまま、広い玄関に入り、靴を脱ぎながら、
「このあいだは、ここでアカリと出会うとは思ってなかったので、その、取り乱してごめんなさい」
と謝った。
「そりゃあ、驚くだろ。当然だよ」
© hitonari tsuji
とタキモトが物静かに告げると、まず、見せたいものがあるんだ、と言って廊下を歩きはじめる。どうやら突き当りの仕事場の方に向かっている。俺は従った。
その背中に向かって、
「今日は、二人がそろって、俺に会ってくれるだなんて、訊いていなかったから、少しびっくりしました。ずっと会わないと決めていた二人じゃなかったんですか?」
と問いかけてみた。
タキモトはそれには答えず、仕事場のドアを開け、先に中へと入った。照明をつけて部屋が不意に明るくなると、俺の目にアカリの、前のとは別の裸婦像が飛び込んできた。それは、アカリがベッドに横たわって、手を突き、こちらを求めるような感じで振り向いて見つめている、俺にとっては許せないほどに卑猥な絵でもあった。乳首までしっかりと描かれてあるし、丸みを帯びた臀部は、ちらっとこちらを向いており、長い足は、何かを待つような具合で、わずかに開いていた。以前に見たものよりも、より挑発的に感じ、思わず、目を背けてしまう・・・。
「お気に入りなんだ。君に、見せたかった」
「俺、見たくないんだけど」
俺はタキモトの背中に向かって、
「それより、ミルコさんと3人で話しましょう。俺は、なぜ、こうなったのか、知りたい。あの後、俺の身に大変なことが起きたんですが、その件、聞いてます?」
と投げかけてみた。
「知っているよ」
とタキモトは力なく言った。ミルコか、もしかするとアカリから、直接聞いた可能性もある。
「あなたたち夫婦のせいとは言わないけど、ぼくはアカリに裏切られ、この街では生きていけなくなりつつあります。たぶん、ミルコさんがアカリに焼きもちを焼いたのが発端にあると思うんですが、どうですか?」
俺は、自分でも驚くほど淡々とタキモトに伝えていた。タキモトは、そうは思わない、と返事をした。タキモトの肩越しに、ポーズをとるアカリの油彩画の一部が見えた。ちょうど、見えている部分は、アカリの顔のあたりだった。二つの瞳が、艶めかしく描かれている。俺は、小さく、ため息をこぼした。
「さっき電話で、ミルコさんが言いました。タキモトはこの世に、生きていない。そして、自分も死んでいるのか、生きているのか、分からない存在だって。ミルコさんが説明すると言うから、俺はここに来た。あの、ミルコさん、呼びましょう。或いは、いないなら、ここに用はない、帰ります」
「いるよ、ここにいる」
© hitonari tsuji
そう告げると、タキモトが着ていた麻のシャツのボタンを外しはじめた。全てのボタンが外れると、こちらをゆっくりと振り返った。何をしているのか、何をしようとしているのか、わからないので、俺は凝視するしかなかった。シャツを脱ごうしているようだ。ざっくりとした麻のシャツの下から素肌が見えた。そして、シャツが落下すると、あまりに生々しい一糸まとわぬ裸の上半身が出現した。そして、俺はタキモトの胸の辺りを目の当たりにしてしまう。その胸は膨らみ、中心部に、二つの乳房が出現した。それは、驚くべきことに、男性の胸ではなかった。目を見開き、息が止まり、言葉を失う。タキモトがメガネを外し、腰を屈めながら、椅子にそれを置くと、その体勢のまま、自分の頭髪を掴んで引っ張りあげた。外されたウイッグの中から、しなやかな髪の毛が出てきて、肩にかかった。
「だから、言ったでしょ、タキモトはいないのよ」
とミルコが言った。いや、すぐにミルコとわかったわけじゃない。化粧をしていないから、それがミルコだと判断はできなかったが、女性にしては太い声に聞き覚えがあったし、よく見ると、その輪郭や骨格はミルコに似ている。何が起きているのか、起きたのか、理解できず、俺は激しく混乱してしまう。
同時に、『タキモトはこの世に、生きていない。そして、自分も死んでいるのか、生きているのか、分からない存在だ』という意味のもつれた糸が少しずつ解けていくのが分かった。
「タキモトはいない。そう、その通り、でも、もしかすると、ミルコもいないかもしれない。わたしは自分が誰か、疑わしい。タキモトが、わたしが生み出した幻だとすると、このわたしもまた、この世にいない人間かもしれないのだから・・・」
ミルコの言葉が、頭の中で、反響する。出会った頃から、今日までの様々な混乱のいくつかの点が、不意にそこで線を結んで一本となったような、けれども、あまりに奇妙は一致をそこに描くのだった。
「じゃあ、あなたはいったい誰ですか?」
次号につづく。(個展が近いので、続きは月曜日になります)
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© hitonari tsuji
辻仁成、個展情報。
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パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。
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1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。