連載小説

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第6回  Posted on 2025/10/09 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第二部「夢幻泡影」第6回 

   俺の前に座る女は足を組んで、その組んだ足の上に肘をついて、じっと俺を見つめている。そこはタキモトの仕事部屋でアカリの裸婦像がイーゼルの上に鎮座していた。複雑な気持ちになるので、なるべく俺はその絵を見ないようにしていた。
   「タキモトはわたしの一部でもあるわけだから、そんなことは起こりうるはずがない、と高をくくっていたのだけれど、タキモトはわたしの肉体の中で、確固たる自分、自身を確立してしまった。そして、意志を持つようになる。ミルコがそれに反発をしても、タキモトを止めることが出来なくなっていった。ちょっと奇妙に感じるかもしれないけれど、あの、もうちょっと聞いてくださいね」
   第三の女は言葉を選ぶ感じで続けた。
   「そうね、そして、タキモトはアカリさんを精神的に支配、いいえ、支配という言葉がふさわしいかどうかわかりませんが、言葉が見つからないけれど、自分のものにしたいと思ったんじゃないかしら。簡単に言えば、タキモトはアカリの創作に没頭し過ぎて、ついに彼女に恋愛感情のようなものを抱くことになってしまった」
   ちょっと待ってください、ちょっと待って、と俺は慌てて制した。
   「それはタキモトじゃなくて、厳密に言うと、あなた、でしょ。あなたがアカリに好意を持ったんじゃないの?」
   「いいえ、わたしはアカリさんにはそういう興味、いや、関心すら持っていません。女性に好意を持ったこともないし。タキモトが強い好奇心を持って、アカリさんを取り込もうとしているだけ・・・。これ、きっと説明してもわかってもらえない」
   「そんなのあなたの理屈でしょ?さっき、あなたは『アカリさんとの間に、性的な関係はない』と言いましたよね。タキモトは生物学的に女性だからって」
   「ええ、言いました。性的関係はない、でも、精神的な関係は進みつつある。タキモトはアカリさんへある種の支配欲を持つようになった。最近の彼の作品にはアカリさんへの愛が詰まっています。アカリさんもまんざらじゃないようで、このままではミルコとの関係が壊れてしまう。ミルコはあなたが推測したように、アカリさんに激しい焼きもちを持っています。見て、この絵を、裸婦像なのに、この中のアカリさんはタキモトを誑かそうとしている、そう見えない?」
   第三の女はヌードになり卑猥なポーズをとるアカリの絵を振り返り、言った。ついさっき、この女がタキモトだった時に俺に言った言葉・・・、『お気に入りなんだ。君に、見せたかった』のひとことを思い出し、背筋が凍りついた。

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第6回 

© hitonari tsuji



   「混乱する変な話で本当に申し訳ないのだけれど、タキモトとミルコがそれぞれ、違う人間であれば、それはそれで、問題ないんだけれど・・・。でも、問題なのは同じ肉体を持っているわけだから、心が完全に分離してしまえば、正確にはその中心にわたしもいるわけで、3者はバランスを壊しかねない。どうなるのか、どう壊れるか、わたしには想像もつかない。ミルコもアカリに対して、あなたが推測したように、不快に思うようになっているし、タキモトを自分のもとへ奪い返したいと内心思っている。不穏なものを感じて、心配しています」
   「いやいや、ごめんなさい。俺は、あなたが語ったご自身の物語に心を動かした。苦情係の抑圧からこのミルコとタキモトを生まれたのだ、と思って今まで聞いていました。苦情の逃避先に、ミルコやタキモトが出てきた。それは、よく理解できますし、感情移入も出来る。だって、俺はあなたの人生を想像して、ちょっと不憫だなって感じたわけだから・・・。でも、ちょっと待って、ここまで話が混雑すると、マジでこんがらがって、わけ分からないんだけれど、じゃあ、今、話をしているのは誰なの? あなた、誰なんだ」
   「わたしです」
   「ミルコじゃなく、あなた!? あなたは一体誰なの? あ、」
   その時、俺はとんでもないことを思い出してしまった。俺は、つい、2,3日前、ミルコと一緒に同じベッドで添い寝してしまった・・・、それは、つまり、この女の横で寝たということになるのか。
   「たぶん、ミルコがしゅうさんに接近したのは、タキモトとアカリさんとの関係を引き裂かせるためよ」
   俺は自分の横で寝ていたミルコのことを思い出そうとするが、あの夜は疲れていて、記憶が判然としない。それより、もっと前の、正確には8日前の記憶が脳裏で揺らぐ。俺はミルコと口づけをしたのじゃなかったっけ? 分厚い唇の記憶が心の端に残っている。はっきりとは思いだせないが、アカリと喧嘩をして飛び出した夜、俺はミルコに「アカリさんだと思っていいのよ」と言われて、藁にもすがる思いでミルコの胸にしがみついていた。そうだ、その時の唇の感触が・・・。あれは誰の唇だったのか。
   「どうしたの? なんでそんな怖い顔してるの?」

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第6回 

© hitonari tsuji



   女の声が頭の中で反響した。いったい、何が起こっているというのだろう・・・。タキモトとミルコの代弁者を自称するこの目の前に座る女は、単純に分裂症を患った人なのかもしれない。そうだとしたら、俺なんかにはもはや何も出来やしない。でも、俺の中には、ミルコがいて、タキモトもいる。同時に、この元苦情係の女を見捨てるわけにもいかない。この人に寄り添うことがこの人を救うことに繋がるのじゃないか、と、なぜか一方で考えてもいた。もし、病気なら、方法は一つだ、いい医者を探し、そこに引っ張ってでも連れて行くこと。でも、それは、どうやって・・・。
   「もしかして、あなたは今、わたしのことを、心を患った人だと思っていませんか? そういう顔をされている」
   俺は思わず目を見開いてしまった。
   「でも、それは違います。ほら、この絵を見てください。実際に、タキモトが描いた作品がこのように存在するし、しゅうさんの心の中にも、あの二人はいるでしょ? それはアカリさんの心の中にもいるのよ」
   その女は、じっと俺の目を覗き込んできた。そこに正気があるのか、狂気が隠されているのか、俺は見抜かないとならない。
   「わたしからのお願いは一つ。アカリさんにこのことを伝えて、タキモトから離れるよう説得してもらいたい。そうじゃないと、ミルコが何か起こしそうで怖い。実際、あなたは今、大変な被害を被っているわけでしょ。あなたのバイト先は、燃やされたんですよね? 半グレだけじゃなく、ニシキの仲間たち、あの界隈の地回りたちが、あなたを血眼になって探しています。どちらになっても傷つくのはアカリさんだし、しゅうさん、あなたは目に見える被害を被ることになる」
   待ってよ、と俺は再び声を張り上げ、女を強く制した。その勢いで、俺は立ち上がってしまった。女を見下ろす格好となった。
   「今日、俺をここに呼んだのはミルコさんでした、よね? そして、さっき、タキモトは俺の前で、シャツを抜いで、今、目の前にいるあなたになった。じゃあ、聞きますが、タキモトがシャツを脱いだその瞬間、誰がイニシアチブをとったの? ここに来て話を説明するから、とミルコが電話口で言いました。でも、来たら、タキモトが出迎え、種明かしをするようにシャツを脱ぎ、膨らんだ胸を見せ、あなたが出現した。あなたは存在していますよね? それとも、あなたを操るまた別の人格がいる?俺なりに考えたんだけど、もしも、あなたが黒幕なら、この話の解決は早い。つまり、タキモトも、ミルコも、あなたなんだから・・・」
   女は、ため息をつくと、悲しそうな目をしてみせた。
   「しゅうさん、あなたが信じられないのはよくわかります。タキモトが服を脱いで、わたしの裸体をあなたに見せたのは、確かに、その時には、わたしがタキモトを超えて、そうさせました。あなたが激しく混乱をするのは分かりますよ。でも、非常にわかりにくいかもしれませんが、一つの身体、一つの脳、に3つの心が同居しているわけですから、ある瞬間に、スイッチが入り、主体が入れ替わることも実際あります。強制終了のようなことが、その都度、それぞれの中で、起こるわけです。そうやって三人は今まで生きてきたのですから、長い年月・・・」
   「じゃあ、タキモトがアカリを支配しようとしている、その背後に、あなたもいるし、ミルコもいるってことですよね」
   「あるいは、そうです。それがどこで出るのか3人とも予測がつかない。なので、危険なのは、タキモトがアカリさんへ強い行為を見せた時に、スイッチして、ミルコ核が出た場合、どうなるか、分からないということ・・・」

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第6回 

© hitonari tsuji



   俺は必死で考えた。でも、出口は見いだせなかった。そればかりか、現実がいっそう遠のき、混乱していく。俺はヒロトを半殺しにし、この界隈の半グレたちに狙われてしまった。どうやら、地回りたちまで出てきた。野本の店は焼かれた。戻る場所すらない。その上、アカリをタキモトやミルコから守らないとならない。
   「しゅうさん、一つ提案があるんだけど、あなたの安全のために、しばらくここに身を隠しませんか? 」
   女はいきなり、真顔で、そのようなことを言いだした。一瞬、二人のあいだに真空が生じた。何かが頭の中でシャッフルする。
   「地回りのニシキという男が『敵を討つ』とあなたを血眼になって探している。ミルコもそのことを凄く心配していて、だから、何度も何度も、あなたに電話をかけた。着信履歴を見れば、ミルコがあなたにかけた電話の回数がわかるはず。彼女は心配だから、5分おきに、電話していた。もちろん、アカリさんも心配している。しゅうさん、あなたは今、逃げ場所がない。あなたさえよければ、どうするか決まるまで、ここに潜んでいて貰いたいの。わたしたちであなたを守ります。わたしとミルコとタキモトで」
   女は、このマンションにしばらく身を隠せ、と言った。もちろん、行き場所もなく、逃げ場所のない俺には願ってもない提案ではあったが、しかし、冷静に考えれば、このミルコでもない、タキモトでもない第三の女と一緒に同じ屋根の下で暮らさないとならないことになる。それはさすがに難しい。いや、それが仮にミルコであっても、タキモトであったとしても、こういう話しを聞いた後で、はいそうですか、と一緒に暮らすことなど出来るわけがない。
   「しゅうさん、心配しないで。わたしは近くに小さなマンション、ほら、前に住んでいたという部屋、今は倉庫になっている、そういう場所を持っているから、そこで寝泊まりできます。あなたがここに潜んでいるあいだ、夜は誰もここには来させないようにします。食べるものは、わたしが交代で日中に運びます。それに、ここでなら、アカリさんとも会うことが出来る。この責任はわたしたちにもあるので、全力であなたを守るつもりだから、お願い、今は従って貰えませんか・・・」 

 次号につづく。

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第6回 

© hitonari tsuji



辻仁成、個展情報。

パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。
全32点展示予定。

1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、8点ほどを出展させてもらいます。

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第6回 

辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学
TSUJI VILLE



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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。