連載小説
連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第8回 Posted on 2025/10/13 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第二部「夢幻泡影」第8回
「しゅうちゃん、食料を届けに来たよ」
とアカリが言った。
俺は言葉を失い、アカリの顔を茫然と見つめ返すことしか出来なかった。いろいろなことが頭を過った。なぜ、ミルコじゃなく、アカリなんだ? それに、前回もそうだったが、アカリはどうやってこの建物の中にまで入ることが出来た?
「お前、もしかして、ここの鍵を持ってるのか?」
「鍵は持ってないけれど、建物に入るための暗証番号は知っている」
「いつから?」
「ねー、ちょっと、入っていい?」
アカリはコンビニの袋を持ったまま、強引に玄関に押し入ると、ドアを閉めた。それから、靴を脱いで、俺を素通りしリビングルームに行き、テーブルの上に袋を置いて、中のものを取り出しはじめた。それらをずらっとテーブルに並べながら、
「しゅうちゃんの好物をいろいろと買っといたよ。明太子、これで、パスタ作ってほしい」
と無邪気に言い放った。
「どういうこと? お前、俺と、一緒に食べるつもり?」
「しゅうちゃんの明太子パスタが食べたい」
アカリは食材を一つ一つ確かめながら、冷蔵庫の中へと仕舞っていく。その後ろ姿を見つめながら、複雑な感情が俺の内側に押し寄せる。それは欲望でもあり、それは嫉妬でもあり、それは嫌悪でもあり、それは未練でもあり、それは悲しみでもあり、それは喜びでもあった。
「質問に答えろ。暗証番号はいつから知ってる?」
「しゅうちゃんと出会う前からよ」
アカリは冷蔵庫のドアを閉めてから、俺を振り返り、直視してきた。
「タキモトさんから教えてもらった。鍵も渡そうか、と言われたけれど、さすがにちょっと怖かったから、それはお断りした。でも、暗証番号知っていた方がいちいち開錠してもらわないでいいでしょ? ここ、フロントとエレベーターに乗る時、2回もセキュリティ通過しなきゃならないからさ」
俺は小首を傾げる。アカリはタキモトが男じゃないことを知っているのだろうか?タキモトがミルコと同一人物であることや、第三の女の存在を知っているのだろうか・・・。
「ミルコさんのこと、知ってるよな?」
「知ってるよ。奥さんでしょ。何回か会ったことがあるもの。最初は、わたしをモデルに決めてくれた時に、いろいろと話したし、素敵な人」
© hitonari tsuji
アカリは買ってきたオレンジジュースを開けて、グラスに注ぎ、一つを俺の前に置いた。椅子に腰を下ろすと、ジュースに口を付けた。
「この買い物のお金、さっき、外でミルコさんに渡されたの。これで潜伏用食材を買ってあげなさいって。だから、コンビニでまとめ買いした。あの人、優しいよね」
「ミルコさんと今、会った?」
「うん。でも、一時間くらい前かな」
俺は頭の中でいろいろなことを整理しないとならなかった。椅子に座り、しばらく自分の足元を見降ろした。相変わらず頭の中は錯綜している。この一週間、俺は混乱と混沌の渦の中で溺れかけている。点と点を繋げようとするのだけれど、なかなか一つの線には繋がらない。俺にはちょっと難しいパズルだった。アカリに質問が山ほどあったが、どこから聞いていいのか、悩んだ。アカリが無邪気に微笑んでいる。こんなに大変な状態になっているというのに、くそ、この野郎・・・。
「でも、お前さ、タキモトさんとミルコさんと一緒に会ったことないだろ?」
アカリが首を傾げながら、
「ええと、どうかな。会ったような気がするけれど、ちょっと思い出せない」
と言った
「二人と同時に会ったことはないはずだ。絶対に」
「そう断言されたら確かにそうかもしれないけれど、でも、なんで、そんなこと言うの? 別にどっちでもよくない?」
アカリが眉根に皺を寄せて、訊き返してくる。
「二人、同時に目の前で見たことねーだろ」
「あ、言われてみたら、会ったことないかも。いつもどっちかと会ってる。タキモトさんの方が圧倒的に多いけれど」
「お前は、このあいだ、俺に『彼氏にバレちゃった』ってLINEメッセージ送って来たよな。んで、瞬時に削除した。まちがえて送信したんだよな? でもな、俺はすでに読んでいた。何がバレちゃったんだ? 浮気をしていたことか?」
「そんなの送ってないよ」
「嘘つくなよ。ほら、ここ」
俺は携帯を取り出し、削除された痕跡を突き出してやった。アカリはそれを覗き込むこともせず、別れてまでそんなこといちいち追及されないといけないのかな、と小言を言った。俺は僅かにひよった。そうか、別れたんだっけ、俺たち・・・。
「アケミが、お前が心酔している男がいるって、言っていたけれど、それはタキモトのこと?」
「アケミが何を言ったか知らないけれど、そういうことにいちいち答える必要があるの? しゅうちゃん、わたしはしゅうちゃんが大変だから、食料を届けに来ただけなのよ。なんで、ここで元カレに追求されないといけないの? しかも、別れた後で」
© hitonari tsuji
俺は反論が出来ず、くそ、と小さく吐き捨てた。でも納得できず、次の瞬間、来いよ、と言って立ち上がると、俺はアカリの腕を掴んで、引っぱった。何よ、と言いながらアカリは抵抗したが、俺が一層力を込めたので渋々従うことになる。俺はアカリをタキモトの絵の部屋に連れて行き、イーゼルに置かれたアカリの裸婦像を示した。
「これ、別にもう別れたからいいんだけどさ、お前が俺と付き合っている時にタキモトが描いた絵だろ? 付き合っていた時に!尻をタキモトに突き出して、こんな卑猥な目をして、こんなポーズ、・・・これがお前の仕事なのかよ」
いきなり、アカリが俺の頬をひっぱたいてきた。パンという派手な音が室内に弾けた。アカリがその勢いで俺の胸をものすごい力でどついた。
「仕事にまでああだこうだ言われないとならないの? これがアカリの仕事なのよ。芸術じゃん、綺麗じゃん、何が悪いのよ。あんた美術館行ったことあんの? 中世の貴婦人はみんな裸じゃん、あれはよくてこれはダメな理由言ってみなよ? わたしは誇りを持ってこのモデルをやってるんだから、文句言うな。もはや彼氏でもない癖に、いつまでも、ねちねちすんな、かっこ悪りィよ!」
俺はアカリの迫力に圧倒され、何も言い返せなかった。そして、少しだけ、みじめになった。だから、落胆し、リビングルームへと退散することになる。冷蔵庫を開け、ビールを取り出し、プルトップを引き抜いて一気に呷った。くそ、と汚い言葉が飛び出る。そのまま、ソファに腰を下ろし、頭を背もたれに預けて天井を見上げた。アカリが戻って来て、しゅうちゃん、と小さな声で呟いた後、
「しゅうちゃんはアカリのこと何も認めてくれないし、何も知らないし、いったい今までわたしのどこを見て、何がどう好きだったの。顔? 身体? 」
と言った。
俺は大きな嘆息をついたが、次の言葉が見当たらず、目を閉じるしかなかった。くそ。
「アカリはね、孤児だったのよ」
© hitonari tsuji
不意に、いきなり、かつて考えたことも想像したこともないようなことを言いだした。その言葉が奇妙な鼓動を連れてくる。
「だから、親が誰か知らない。どっかの施設で育った。別にそんなことどうでもいいし、お涙頂戴なんて思っちゃいないよ。だから、今まで言わなかった。同情されたくなかったから・・・。でも、わたしの誕生日は1月1日なの。知らないでしょ? 恋人だったくせに誕生日知ってた? そこの施設にいた子たちもみんな同じ誕生日だった。みんなその辺に放り投げられた子供たち、同じ境遇の子たちに交じって、わたしは育った。わたしは6歳の時に・・・」
アカリは一度、呼吸をし直し、震える声で続けた。
「6歳の時、とある家族に引き取られた。不意に『あなたの親よ』とか言われて、そこの子供になった。そして、きっとわたしのせいで、はっきりしたことは知らないけれど、その夫婦は離婚することになって、その後にやって来た新しいお父さんみたいなくそジジイの虐待を受けた。思い出したくもない日々・・・。髪の毛ひっつかまれて、逆さ吊りにされたこともあるのよ。15で耐え切れなくなって、そこを飛び出し、この街に居ついた。くだらないドラマみたいな話でしょ?でも、わたしの真実の子供時代、ねェ、しゅうちゃん、なんにも知らないじゃん?わたしをモデルの仕事に紹介してくれたのがハラグチさんで、家が無くてうろうろしていた時に相談にのってくれたのがニシキさん。しゅうちゃんがボコボコにしたヒロトとはね、昔、ちょっとだけ付き合ったことあるんだよ。でもね、言っとくけど、わたし、この街では虐待を受けたことも、レイプされたこともないし、愛を押し付けられたこと、見返りを求められたことさえないし、わたしを縛り付け籠の中に押し込んだ男の人なんか一人もいなかった。みんな癖が強いけれど、わたしには優しい人たちなんだよ。しゅうちゃん、何も知ろうとしなかったじゃん。しゅうちゃん、わたしの何を見てたんだよー」
アカリの目から、涙が一つ、零れ落ちた。それは泡じゃなかった。宝石よりも綺麗な涙の結晶だった。アカリは鼻を一度すすり、目元に力を込め直して、
「でも、今はしゅうちゃんを守らなきゃって思ったから、ここに来た。わたし嘘つきだけれど、でも、そこにだけは嘘がないの」
と言った。
次号につづく。(明日を目指しますが、個展中なので、ちょっとわかりません)
※本作品の無断使用・転載は法律で固く禁じられています。
© hitonari tsuji
辻仁成、個展情報。
いよいよ、今日から、はじまるのです。
☆
パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。
住所、20 rue de THORIGNY 75003 PAROS
全32点展示予定。
☆
1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。