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連載小説「泡」第三部「鏡花水月」第2回  Posted on 2025/11/04 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第三部「鏡花水月」第2回   

   仙人に「ドクター先生」と呼ばれる痩せ細ったやはり老境の男が、俺の身体のあちこちにある傷口を消毒し、包帯を替えたり、ギブスの具合を確認したり、聴診器で心音を調べたりした。俺が寝ているベッドの横には、点滴のような器具まであった。俺の左腕はギブスで固定されていたが、先にある指先はかろうじて動かすことが出来た。ドクターは言った。
   「もうすぐそのギブスも外せるからね、そしたら、リハビリを開始する。ラッキーなことに、君はまだ生きている」
   ドクターは頻繁にやって来て、俺の身体を調べた。首から肩にかけて大きな傷が残っているよ、とドクターは言った。痕はたぶん消えないが、死なずに済んだ、と微笑みながら、冗談のような口調で、しかも笑顔で告げた。俺はこの男の言葉を理解するのが精いっぱいだった。でも、癒されたし、ものすごく安心することが出来た。
   時々、仙人も傍にやって来て、枕元の丸椅子に腰かけ、俺を見守った。何か質問をしてもよかったが、あえて、言葉にはしなかった。赤ん坊が手探りで、立ち上がろうとしているような状況だった。自分の中で、この現実と向き合いながら、まずは、何が自分に起きているのか、起きたのか、自分の頭で理解し、考えなければならない。ともかく自分を自分の力で取り戻すことが先決のように感じられた。
   俺の身体を拭きに来る老婆もいた。俺の排泄物の処理もこの人が受け持っていた。身なりは他の連中と同じように薄汚かったが、やはり、いつも笑顔で、テキパキと動き、良く喋った。
   「昔はわたしもこの界隈では相当な美人で、今でこそこんなだけれどもね、目も醒めるような美人ということで有名だった。ほんとうだよ、信じてないだろ。毎日のように殿方に求愛されて、そりゃあ、困ったもんだったよ。あんたみたいないい男が列をなして、わたしにバラの花とか届けに来るんだもの。花が嫌いになったよ。だって、枯れるじゃないさ、そのあと腐るし、やだね、終いにゃ変な匂いまでしてくる。花の命は短いから、嫌になっていった。人間も同じだけれど、若い時がね、ま、当たり前なんだけれど、一番輝いて美しかった。でも、その時の記憶があるからね、わたしは今もこうやって誇り高く生きていられるということなんだ。それは大事だ、つまり、若い頃にどう生きるか、ということは大事さ。高架下の貴婦人と呼ばれていた。今のこの姿恰好からは想像できないかもしれないが、あの大きなガードの下に立つと、もうひっきりなしに男たちがやって来て、プロポーズされたもんさ。嘘じゃないよ、証拠はないけれど、冗談なんかじゃない。片鱗ちょっとはあるだろ? それにわたしは霊感があったからね、若さを失ってからは、あのガード下でこの界隈の勇ましい人々の未来を見てあげる仕事をはじめた。その頃も、また、ものすごい行列が出来て、よく当たるって、評判になった。でも、それが長く続かなかったのは、恋のせいさ。ちょっと好きな人が出来ちゃって、入れあげちまったからね。全財産をその人に巻き上げられてしまい、そこからは墜落の一途だったよ。それでも、その人が好きだったから、なんとか好かれたいと思ったわけだが、金の切れ目が縁の切れ目って言うじゃないか。わたしに金がなくなると見向きもされなくなっちまって、そこから高架下の貴婦人の転落劇がはじまるってわけだ。けれど、わたしはね、そうだね、憎悪と言えば聞こえはいいが、その、ある時、もう限界になっちゃって、好きすぎて、待ちくたびれて、ついにその人を愛と嫉妬心から刺しちゃったんだよ。当然、逮捕された。その人はもう歩けない身体になっちまって、そりゃあ、人生を悲観するようになって、ついには孤独な場所で死んじまった。でも、その男の死については、出所するまで聞かされなかったんだよ。ここに戻ってきたら、昔からの馴染みが何人かいるじゃないか、そういう連中から人伝に聞いた。わたしが刺した男もね、ある意味、堅気な人間じゃなかった。でも、そんなのはたいしたことじゃない。みんなこんな街で生きてりゃ、どこか普通じゃなくなるもんだよ、だろ? だから、わたしがあんたを看病するのは、あんたがちょっとその人に似ているからかもしれない。顔というよりも、そうさな、なんだか全部、生き方とか、雰囲気とか・・・。せめて、あんたが再び恋が出来るように、わたしはわたしなりに、あんたのために出来るだけ寄り添いたいって、思っているんだよ。罪滅ぼしみたいなものかな、元高架下の貴婦人なりに、罪を抱えて生きているからだ。ところで、あんた、名前なんていうんだい。わたしに、教えてもらえないかい?」

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」第2回 

© hitonari tsuji



   老女が俺の胸の辺りを濡れたタオルで優しく拭きながら言うものだから、それが切なくて、自然と、目元が湿ってしまった。俺は自分の名前を口にすることになる。
   「しゅう」
   「おや、そりゃあ、驚いた。そりゃあ奇遇だわ。わたしが愛した男はね、しゅうぞー、って名前だった。しゅうちゃんって呼んでた。そりゃあ、何かのご縁だね、しゅうさん、しゅう・・・、そうかい、これは神様の思し召しってやつだな。大丈夫、きっとこれは何かの縁だから、わたしがちゃんと面倒を見てあげるよ、安心しなさい。心配しないでいいよ。しゅうさん、何か、食べるものを持って来てあげるから、ちょっと待ってな」
   この老女は、せっせと、俺に食べるものを届けてくれた。それは期限が切れたパンだったり、食べかけの弁当だったが、でも、彼らにすれば、精一杯の看病ということがわかった。自分がこの連中に救われたのだ、ということは理解することが出来た。なぜなのか、分からない。そして彼らが何者か、わからない。その時、ふと、はじめて仙人と地下道の交差点で出会った時のことを思い出してしまった。行き交う大勢の人々の中にあり、仙人は泰然と角地に座り、俺を手招きした。そんな出会いだった。その時、仙人は、ここに座って地下道を行き来する人間を見つめよ、と言った。俺はしゃがんで、生きる速度を落とし、言われるがまま、人間の行動を観察した。今まで見たことのない世界がそこにあった。その記憶だけが鮮明に脳裏に浮かんできた。仙人は俺にこのようなことを語った。
   『お前は自分が生まれた瞬間を知らないだろ? そして、おそらく、死ぬ瞬間も知ることはない。それはお前だけじゃなく、目の前のこの連中も全員一緒だ。今生きているすべての人間に共通すること。つまり、歳はとっても、生も死も知らないで生き続けることになる。自分が生まれた瞬間がない、ように、人間は死ぬ瞬間を持たないのだから、実は、永遠に生き続けることになる。これが真実だ。そして、この世界というものは、そのようなお前の頭の中に存在するものであり、簡単に言ってしまうと、幻想に過ぎない。生も死も人間が作った概念。だから、生きているすべての人間は生も死の瞬間も知らないことになる。結論を言えば、苦しんでいることも幻に過ぎない。なのに人間が苦しいのは、ひたすら概念に振り回されてしまっているからだ。概念を捨てられたら、お前は楽になる』

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」第2回 

© hitonari tsuji



   そうだ、仙人は最後に俺に向かって「概念を捨てろ」と言った。俺は、なぜ、この連中が俺を救ったのか、をひとまず考えないことにした。あの日、仙人に呼び止められたのが偶然ではなく、また、同じようにこうして助けられていることも、偶然ではない。それは、俺の記憶の中に焼き付いている、その仙人のことばから明らかだった。
   ドクターは微笑みながら、当たり前のことだけれど、時間をかけて治すしかないな、と言った。
   「でも、驚くべき回復力だよ。先週よりもうんと君は回復している。意識が戻ってからは格別な進歩だ。明日にはギブスを外せるし、リハビリを始めてもいいと思う。生まれ変わった、と思えばいいんだよ」
   生まれ変わる、生まれ変わる、生まれ変わる、・・・。俺は自分のギブスを見つめながら確かめるようにつぶやき続けるのだった。
   「あの、俺はどのくらいここにいるんですか?」
   ドクターは俺が口を開いたことに驚いた様子だった。目をまるめ、消毒液を塗った脱脂綿を掴んだまま、
   「ええと、・・・そうだな、あの日からかれこれ3週間、いやもっとだ、4週間程度は経っていると思うよ」
   と優しい声で言った。4週間という具体的な長さが分かったことで、俺はさらに元の世界へと戻る準備を進めることが出来るような気がした。4週間もここで、ずっと生死を彷徨っていた、ということになるのか・・・。なぜ、俺は警察に突き出されなかったのか、彼らは俺の何を守ろうとしたのか・・・。概念を捨てろ。その疑念もまた概念であった。

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」第2回 

© hitonari tsuji



   そして、それから何回か眠って、何回か起きたある日のこと、ドクターがやって来て「リハビリをはじめる」と宣言した。病院だったらもうちょっとましなことが出来るんだが、ここには設備もないし、人手もない、と説明した。起き上がること、立ち上がること、歩くこと、をさらに何日かかけて訓練することになった。俺は這い上がるような気持ちで、そのリハビリに集中することになる。老女がドアの隙間から覗いており、目が合うと、満面の笑みで拍手をした。よく歩けたね、と言われたような気持ちになった。
   「君は若いし、たぶん、2か月もあれば、握力も戻り、軽い作業くらいなら出来るようになるだろうよ。幸いなことに肋骨は折れてなかった。傷は酷かったが、腫れはほぼ引いた。傷の一つや二つ、生きる上で支障はない。もっとも左腕は激しい骨折だったから、腕そのものがちょっと歪んでしまった。心配なのは、腹部をかなり蹴られているから、内部がどうなっているか、レントゲンとかないんで、分からないってことだ。でも、排泄物を調べている限り、血も出てないからね、大丈夫かな」
   仙人がやって来て、俺の歩行訓練を見守った。この人たちが何者なのか、やっぱり分からなかった。でも、仙人が言ったことばが、俺の心の中にあった。
   『概念を捨てろ』
   仙人は俺をじっと見ていた。俺は余計な詮索はせず、歩行訓練を続けた。今、生かされていることをただ認め、すべてのことをただ受け入れることにした。踏み出す、わずかな一歩の中に、俺は生きている現実を見い出すのだった。一歩、一歩・・・。今、俺が生きる上で必要なものがそこにあった。
   「何かわしに訊きたいことはあるかね」
   そう告げると、仙人は、口元を緩めてみせた。
   俺は「何もないです」と告げた。すると、仙人は、そうか、そうか、それならいい、と何度も頷きながら言うのだった。

 次号につづく。

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。