連載小説
連載小説「泡」第三部「鏡花水月」第3回 Posted on 2025/11/05 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第三部「鏡花水月」第3回
随分と月日が流れたような気がする。仙人がやって来て、俺の横に座ると、これからどうするかね、と腹の底から絞り出すような声で、問われた。
「あの日、つまりお前とあの連中そして警察官なんかが入り乱れて、上の地下道で大乱闘を引き起こした日のことだ。わしが、どさくさに紛れて、お前をコインロッカー脇の通用口から、こっち側へと引きずりこんだ。お前はすでに意識もなかった。お前が刺した男が大量の出血をし、地下道が大パニックになった直後のこと。界隈の不良たちがあの刺された男を抱えて地上へと連れ出そうとして、駆け付けた大勢の警官隊とさらにひと悶着起こしている隙に、我々はこの地下世界へと脱出した。もっともその時は死んでいるか、生きているかわからなかったからね、ドクターを呼んで、ドクターと言っても医師の免許を持っているわけじゃないが、昔、救急隊員だったこともあって、みんなにそう呼ばれている、ほら、いつもお前の治療をやっているあのひょろっとした男のことさ。わしも含め、みんな彼に助けられておる。この地下世界で生きている我々は、ある意味、上の世界ではうまく馴染めなかった者たちばかりで、気が付いたら、ここらへんを根城にして、そうだね、互助会のような関係を構築し、上とは異なるルールのもと、助け合って生きている。誰かが死んだら、地下水路の奥でちゃんと埋葬もするし、祈りも捧げる。定職を持ってる者こそいないが、この世界での生き方には精通している。上では廃棄物として捨てられる食料もここではご馳走だし、ルートがあって調達することも難しくない。風呂こそないが、トイレは地下道まで登ればいくらでもある。とくに、水が豊富にあるので、生きるには困らない。夏は涼しく、冬は暖かい。この部屋は我々が普段は集会所として使っているところで、もともとは戦時下の武器とか何かの保管庫だったが、でも、長い年月、ここは忘れさられてきた。そういう空間が、この街の下には実はいくつもあってね、そこに我々は棲みついているというわけだ」
仙人が包まれた何かを取り出し、俺の前に置いた。

© hitonari tsuji
「ほら、これ。回復をしたら、返そうと思って預かっていたもの」
そう言いながら、仙人が手ぬぐいを開くと、中から携帯が出てきた。携帯ケースの横にはちゃんとカードも挟まっていた。俺の、今の、すべて・・・。
「しかしな、ここは電波が通じない。たぶん、充電も切れている。さァ、どうする? いつまでもここにいるわけにはいかないだろうから、どこかのタイミングで外に出ないとならないね」
知りたいこと、聞きたいことがいろいろとあった。でも、この人たちにはわからないことばかり、関係ないことだらけ・・・。俺が刺した男がどうなったのか、気がかりだったが、それも今となっては、もうどうでもいい。すべてが泡のような出来事だとしたら、もはや、はじけ飛んだ過去に過ぎない。
「いつまでもここで迷惑をかけることも出来ないので・・・、今日にでも、ここを出ようかな」
「そうか、でも、行くところはあるのか」
思い当たる場所は一つしかない。この街にはもう戻れる場所などはない。人を刺したのだ、きっと、あいつらにも警察にも追われ続けることになる。アカリに連絡をいれることも出来ない。彼女に迷惑がかかる。そうなると、俺に残された選択肢は、実家に戻ることだけだった。幸いなことに、俺の両親は、半島のはずれ、海に面した小さな漁港近くの、それも、葦に囲まれた荒地に建つバラックのような一軒家で暮らしており、しかし、両親共に健在だった。もともと漁師だった父親は昼間漁港で日雇い労働のようなことをしているが、人付き合いが悪いせいで、孤立無援の生活をおくっている。そのことで、俺はよくいじめられもした。喧嘩が強くなったのは、力でしか、自分を守ることが出来ないことを知ったからだ。きっと、実家はいい隠れ家になる。俺が借りていたアパートはもともと野本店主が俺をこの街に定住させ、自分の店で働かせるために用意した物件だったから、俺が特に解約などをする必要もない。俺の素性を知っているのは、野本だけで、あとは、この界隈では「しゅう」という下の名前だけが通用する。だから、ニシキたちが追いかける「しゅう」という元ラーメン屋の店長は、実際、どこの誰だか、誰にも分からないということになる。アカリだって、俺のことはほとんど何も知らない。4か月しか、付き合っていなかったし、自分の素性を、もちろん、アカリの人生についてでさえ、お互い、ろくに話し合ったことさえなかったのだから・・・。

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もちろん、俺が刺した奴が死んだのなら、殺人罪ということで、警察が俺を探している可能性もあるが、さぁ、どうだろう、俺がだれか、誰も知らないのだから、あのド田舎の両親の実家にまで、警察の手が回るかどうか、なんとも分からない。仮に、警察が来たとして、それはそれで受け入れるしかない。アカリのことが心配だったが、俺にはもうあの子を幸福にさせる手立てがない。これだけの事件を起こしてしまったのだから、諦めないとならない。少し前に二人は別れたのだし、あの子にはあの子の生きる世界があるのだし・・・。
「始発が動き出す前に、中央改札口までおくって貰えますか?」
俺は仙人に頼んだ。
何時間かのち、俺は仙人に連れられ、地下階段を上った。歩くことは出来たが、手すりにつかまり、自分が情けなくなるような、か弱い歩きだった。振り返ると、少し離れたところに人影があった。俺の世話をし続けた、元高架下の貴婦人だった。彼女は、こっそりとついてきていた。見送りたかったのかもしれない。

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なんとか、地上階に辿り着いた時、豪雨が止んだ直後のようで、人はまばら、中央駅周辺の路面はびっしょりと濡れていた。俺は深呼吸をした。肺の隅々にまで空気が行き渡るのが分かった。摩天楼の上の雲間から満月が顔を出していた。久々に見る美しい月だった。
「あれも美しいが、こっちのも同じくらい綺麗だとは思わないか」
仙人が、俺たちの足元を指さして言った。そこには大きな水たまりが出来ており、その中心に反射した満月が切なく光っていた。ほんとうだ・・・。
「鏡花水月という。それはつまり、こういう風に実際にはないものだが、水たまりに反射する月のような儚い美のことを指す。手に取ることは出来ない、非現実的な美しいもの」
俺はしゃがんで、その水たまりに触れてみる。すると、水が揺れて美しい月が壊れてしまった。
「お前は、そのような儚く美しいものを大切にして生きなさい」
仙人はそう告げた。離れた地下道の入り口に、元高架下の貴婦人が立っているのが見えた。仙人は行きかけたが、一度、俺を振り返って、こうつけ足した。
「概念を捨てろ」
俺はもう一度、摩天楼を見上げた。そこには穴が開いているのかと思われるような見事な満月があった。そして視線を落とすと、そこにもまた、儚いが美しい月が非現実的にたゆたっていた。
次号につづく。
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。



