連載小説

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」第7回  Posted on 2025/11/10 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」  

第三部「鏡花水月」第7回  

   「末永くよろしくお願いいたします」とアカリは俺の両親に向けて言った。俺はアカリが明るく言い放ったそのなんとも奇怪な言葉の意味を考え続けた。どういう意味だ? 末永くって・・・。
   俺の頭は、喜び、よりも「末永く」の意味を追求するあまり、混乱して、動かなくなってしまった。母親が二人のことを探るような質問をアカリに浴びせていたが、ラーメン屋での俺の仕事ぶりや、店の混雑ぶり、店主野本の優しさとか、飼っていた黒猫のことなど、当たり障りのない話でアカリはごまかしていた。
   食後、アカリはシャワーを浴び、母親はアカリが寝間着に使えるような俺の古いジャージなんかをどこからか引っぱりだしてきて、つまり、俺たちがそこで寝るための準備なんかをせっせとやり始めた。俺はどうしていいのかわからず、そわそわしてしまったので、自分の部屋の窓を開け、心を落ち着かせるため、外で待つことになる。デッキに腰掛け、海の上の月を見ていると、
   「しゅうちゃん、あがったよ」
   とアカリの声がした。アカリはすでにジャージに着替えており、いい匂いをさせながら、俺の横に腰を下ろした。そして、ほんの少し、俺に自分の肩をくっついてきた。俺はドキドキしていた。あの地下世界の暗い部屋でずっと治療を受けていたことが幻影だったかのごとく、今はあまりに心地よく爽やかなのだ。この差はなんだろう。なんて言えばいいのか、言葉が思いつかないばかりか、これは絶対に幻だ、と自分に言い聞かせて、泡のような夢がいつ消えても慌てないよう、自分を強く律し続けた。
   「なんであんなこと言った?」
   「なんのこと?」
   「末永くよろしくお願いいたしますって、俺の親に言ったろ。あんなこと言うと、俺たちが結婚するみたいに思うじゃんか」

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」第7回 

© hitonari tsuji



   「結婚すればいいじゃん」
   「バカ言ってんじゃねーよ。不意にやってきて、何の脈絡もなく、そんなこと言いやがって、俺をこれ以上翻弄するのも大概にしろよ」
   「でも、アカリもずっとこの2か月考えてたんだもん」
   考えていた、という響きが、俺の次の言葉を引き留めた。え、いったい、何を?
   「アカリにはやっぱり、しゅうちゃんしかいないって、しゅうちゃんが好きなんだって、しゅうちゃんがいいって。この2ケ月で、ようやく気づくことが出来たの」
   俺は驚いたが、額面通り受け止めて、浮かれることは出来ない。その代償が大きすぎた。まだ何も解決していないし、まだどの謎も解けてはいなかった。
   「ミルコとタキモトはどうなった? ニシキやその手下とか、今でも俺を血眼になって探してるわけだろ、そんな状況で、幸せって、・・・。それに、お前、俺に何度も嘘をついた。妊娠してるって言い出したり、妊娠は嘘、と言ったり、3人の男と関係を持ったと言ったり、・・・とても信用できる話じゃないじゃん。なんで、末永く、とか言うんだよ。くそ野郎」
   「でた、久しぶり」
   「は?」
   「しゅうちゃんの、くそ野郎」
   アカリが笑った。俺は少し大きな声で、くそ野郎、ともう一度今度は本気で吐き捨ててみる。もちろん、俺にはアカリに対する未練があるし、いい思い出もたくさん残っていた。しかし、現実問題として「末永く」とこれまでの出来事が結びつかない。俺は、遠くの海の上に浮かぶ月を見上げて、今までで一番大きな嘆息を溢すしかなかった。
   「ニュース見てないの?」
   「え、見ねーよ、携帯なかったし。ニュース? なんの?」
   「見てないのか・・・」
   「そもそも携帯があっても、俺がニュースなんか見るわけねーだろ」
   「高沢さん姉妹、ほら、ミルコさんとタキモトさんって言ったら分かるでしょ、あの二人、警察に逮捕されちゃっんだよ。めっちゃ大きなニュースになってた。めっちゃ大きなニュース、アケミからも連絡があった、大変って!」
   「え?」

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」第7回 

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   「あの日、救急と警察が来て、どういう事情聴取があったか知らないんだけれど、高沢育代が退院したら、不意に、捕まったの」
   「なんで? 殴ったの、俺なのに?」
   「がんさくって言うのね、有名な絵をクリソツに描くコピー画家のこと。なんか、世界的有名画家の絵を描いてオークションとかで何億って想像つかない金額で、売ってたって・・・。日本の双子の贋作家逮捕って、SNSに二人の写真が流れてて、ショックだった。スイスの警察から日本の警察に逮捕の依頼があってたらしくって、結構、前からあの二人、マークされていたみたい。詳しくは分からないけれど、今は、行方が分からない。連絡もないし、もしかしたら、刑務所かも・・・。アカリもあの部屋で見せて貰ったことがあったけれど、あれ、有名な画家さんのパクリだったって・・・。アカリの絵、どうなるんだろう・・・」
   アカリからの情報だけだと、すぐにイメージがまとまらなかったが、有名な画家の絵をそっくりに真似て描いて売ることが、逮捕されるような凄い犯罪だったのか、と俺も少し驚いてしまった。アカリは、自分のことを親のように大切にしてくれた高沢育代のことが心配だと喋っていたが、あまりに俺たちの世界からかけ離れた遠い世界の、想像もつかない話だったので、そのうち、話題も尽き、あの二人は心に病を抱えていたわけだから、まずは病院で治療を受けた方がいい、と俺が言うと、アカリが不意に暗い顔になって俯き、少しのあいだ、鼻をすすって悲しんでいたが、それも、まもなく、打ち寄せる波の音にかき消されてしまった。あの日のミルコは今、どこで何をしているのだろう。アカリには言えないが、うっすらとミルコの分厚い唇の感触が残っている・・・。

連載小説「泡」第三部「鏡花水月」第7回 

© hitonari tsuji



   俺たちは月が大きく海の上を移動していくのを、長い時間かけて眺めていたが、ちょっと疲れたし眠い、とアカリが言い出したので、部屋に入ることになった。
   「こんな狭いベッドで、どうやって寝る?」
   俺が、ベッドのカバーを外し、枕を直してから、振り返ると、とアカリが窓辺で、ジャージを脱ぎだしていた。
   「ちょっ、ちょっと・・・」
   制止したが、アカリはジャージの下も脱ぎ、下着だけの姿となった。月光が美しい姿態を象っている。裸になったアカリは、しゅうちゃん、と微かな声で言った。
   「ここに来て、触って」
   「なんだよ、急に」
   するとアカリは真横を向いて、自分の下腹を抱えてみせた。
   「わかる?」
   「何が?」
   「4か月を超えたのよ。ちょっとだけ、目立つでしょ?」
   アカリが言っている意味が分からなかった。一生懸命考えた。目立つ? 4か月? そして、バカな俺もようやく、アカリのお腹に命が宿っていることに気づくのだった・・・。

次号につづく。

  
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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。