連載小説
連載小説「泡」第四部「地上、再び」第2回 Posted on 2025/11/25 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第四部「地上、再び」第2回
「アカリ、大丈夫か」
俺の腕の中で、じっとしているアカリが、消えそうな細い声で、うん、と言った。でも、それは意思の宿らない、心のこもらない返事に過ぎなかった。
さっきまで大泣きしていたリンゴはベビーベッドの中で寝ている。少し前に、ひきつけを起こした時があり、その時はアカリも俺もパニックになった。ひきつけと言っても大人のそれとは異なり、硬直して数秒から、それよりもう少し長く、冷凍の魚のようにぴんとなって動かなくなるもので、医者に相談をし、赤ん坊のひきつけだ、と分かった。まもなく普通に戻ったが、片方の手が不思議な動きをすることもあり、それもひきつけ痙攣の一種だと言われた。最初にひきつけが起きた時、アカリは、は目を見開き、激しく動揺をした。引き攣ったリンゴの顔が「鬼に見えた」と漏らした。
子供に起こるこういうこと一つとっても、トラウマのあるアカリには、何か別のサインに思えてしまう。自分のせいで、この子が幸せにはならない、と訴えたこともあった。そんなことはあるわけがない。お前の生い立ちがこの子に影響を与えるわけがない、と俺は宥め続けたが、聞く耳を持たなかった。
俺が見ている限り、アカリはよく息子の面倒を見ていたが、明らかに心が不安定になると、当然、俺の母親が手を貸した。でも、そのこともアカリにとっては不満らしく、「自分がいい母親じゃないから、お母さんが手を貸す」と言い出す。

© hitonari tsuji
「リンゴ、かわいいな」
俺は横で寝ているアカリの耳元で囁いた。
「うん」
「頑張ったな、アカリ。いいお母さんになった」
「それ、嫌味?」
「頑張ってるじゃん、だって・・・。それにリンゴは、二人のいい部分をとった。目はお前で、鼻は俺で、口はお前で、耳は俺。俺たちにそっくりだ」
「やめてよ。そういうの。マジで、やめて!」
「なんで、だって、みんな言ってる。そっくりだって」
「似てほしくない」
「どうして、似るのが当たり前じゃないか。血が繋がってるんだから」
「しゅうにそっくりだったらよかったのに、わたしにだけは似てほしくないんだって」
「アカリ、冷静になれ。俺たちはあんなかわいい子を授かって、幸せなんだよ。これ以上の幸せはない、あの子は、俺の子であり、お前の子なんだから」
「・・・・」
アカリが俺の腕から抜け出て、背中を向けて寝てしまった。こういう話題になると、特に反抗的になった。俺は背後からそっとアカリを抱きしめる。何かを我慢しているのが伝わって来る。身体に奇妙な力が籠っていた。アカリの心の中が心配で仕方がない。
「しゅうちゃん、わたしね、怖いのよ。毎日、ものすごく不安なの」
「それは伝わって来るけれど、でも、不安になる必要なんかあるか? すくなくとも俺が頑張る。心配すんな。俺は二人のために一生懸命働くつもりだし」
「そうじゃなくて、わたしは自分のバックボーンが分からないから、リンゴのそこかしこに、そのバックボーンを見るような気がして、なんか悪い自分に似てないか、心配になって、その、怖いの」
「悪い自分なんかねーだろ」
「わたしを捨てた親は鬼だと思うの。その鬼の遺伝子がわたしにもあって、それはリンゴにもあるんじゃないかって、・・・」

© hitonari tsuji
「アカリ、それは100%ない。人間は環境で変わる。確かにお前は不幸なおいたちだったが、お前を生んだ人も、過酷な人生の中にあって」
「それは違う! あいつはマジで鬼だった! 鬼で悪魔だった」
アカリが大声でわめきだしたので、ぎゅっと抱きしめ、わかった、わかった、大きな声だすと、リンゴが起きてしまう、といなした。
「とにかく、今は、今だ。過去はもう、切り捨てろ。昔の辛い出来事を乗り越えろ。俺たち二人で力を合わせて、リンゴがお前みたいに苦しまないで済むよう穏やかに育てることが大事だろ。俺はこの通り単細胞だから、喧嘩しか取り柄のない人間だけれど、もう暴力でものごとは解決しないって決めたし、親として責任を持って社会に逆らわず生きていこうって決めた。家族をもっと幸せにさせるために、ラーメン屋を出すつもりで毎日一生懸命働いて金を稼いでいる。俺たちがやらないとならないのは、貧しくても、いい環境をリンゴに与えないとならないってことだ。そのためには、アカリ、いつまでも過去に引きずられていちゃけない。二人で力を合わせて、リンゴを幸せにさせようよ。それが、同時に、俺たちの幸せにも繋がる。わかんだろ? 過去なんか関係ねー」
「しゅうちゃん」

© hitonari tsuji
アカリがくるりと振り返り、俺の胸に顔を押し付けて泣いた。いつまでも、いつまでも泣き続けていた。そのうち、疲れて眠りに落ちた。アカリは、拭い去れないトラウマをいまだ抱えて生きている。俺はいつか、アカリが昔のように心の底から笑える人間に戻ってほしい、と願っている。出会った頃の、あの、能天気なアカリが好きだ。もちろん、今のくすんだアカリも愛おしい。でも、笑顔を取り戻させてやりたい。それだけが俺の願いだった。そのために俺は頑張らないとならなかった。俺は、奥歯を噛み締めた。
「大丈夫よ、アカリさんは今、必死で母親になろうとしているの。わかるでしょ、彼女は闘っている。見守るしかないわよ」
母親のマチ子が言った。俺をそうやって必死に育てた俺の母は、何度も俺にそう告げた。大丈夫よ、と・・・。
「そのうち、必ず心と気持ちが折り合うから、大丈夫・・・」
俺は朝の3時、アカリとリンゴを母に委ねて仕事に出かける。必死に働き金を稼がないとならない。子供が学校に行くようになり、夫婦でラーメン屋をやることが出来たら、きっとアカリも幸せを実感出来るに違いない、と信じていた。そして、今、店を出すという夢を俺はもう一度持つことが出来た。小さな漁村だけれど、人々に愛されるラーメン屋が出来れば、俺たちはもっと幸せになることが出来る。そして、きっといつか、アカリに笑顔も戻る。銀行でお金を借り、ちょっと無理をすれば、大きな店は無理にしても、たとえば、カウンターだけの小さなものであれば、あと、2,3年で集められる可能性もあった。とにかく真面目に働き、リンゴの成長を見届けてやりたかった。
「しゅう、ほら。これ見ろ、違う魚が混じってんぞ」
父親が、区分けされたケースの中に手を突っ込んで、アジではない魚を掴んで取り出し、俺の目の前に差し出した。
「もっと集中して、やれ」
「ういっす」
父親はその魚を廃棄ケースの中へと放り投げた。朝陽が漁港に降り注いでいる。作業員たちが、黙々と仕分けの作業をこなした。50歳になった父親だったが、その腕は太く逞しかった。出しゃばらず、毎日を丁寧に生きる、ああいう人間になりたい、と俺は思った。
「ぼうっとするな」
父に叱られ、俺は慌てて作業に戻ることになった。
次号につづく。
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辻仁成、展覧会情報
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2026年、1月15日から、パリ、日動画廊、グループ展に参加。(辻仁成以外は、Henry Zers, Pierre Lesieur 彫刻のPatrick Blochの3氏)
2026年、11月に、フランスのリヨン市で個展が決まりました。詳細は後程。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。



