連載小説

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第3回  Posted on 2025/11/26 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第四部「地上、再び」第3回  

   アカリの精神状態は天気に似て、日によって異なった。雨が降る日は同じように停滞し、くすぶっていたが、快晴の日は幾分、調子が良くなることもあり、リンゴが立ち上がった瞬間とか、歩きはじめると、昔のような笑顔が戻ることさえあった。長くは続かない笑顔であっても、回復の兆しが見え、俺は掬われた気持ちになることが出来た。笑顔そのものは少なくなっていたが、出産後も、一生懸命、育児に勤めていたので、どちらにしても、様子を見るしかなかった。長い時間をかけて、少しずつ折り合っていくしかないのであろう、と両親と話し合ってもいた。
   休日、母と父にすすめられて、リンゴを母に預けて、二人で、リゾート地にある海のレストランへ出かけた。白い光が、世界を平等に照らす、平和な一日だった。穏やかな波打ち際を二人で歩き、その海沿いに立つレストランの中へと入った。
   窓際の席に座ったアカリは表情のない顔で、俺を見ず、ずっと海を見つめていた。俺は少しでもアカリの心の中に潜り込み、彼女の恐怖を拭い去ってやりたかった。母は、俺と二人きりの時に、少し心を患っているんじゃないかしら、と耳打ちした。一度も考えたことのないことだった。幼少期のトラウマが、彼女を鬱にさせるだけだ、と思っていたし、愛の力で、家族の力で、マタニティブルーや育児鬱は乗り越えられると俺は信じていたからだ。でも、母親はもう少し深刻な事態を想定しているようだった。深い幼児期の心の傷は癒えるどころか、出産を通して、育児の重責も加わり、心の亀裂は広がり、病を引き起こしてしまったのかもしれない、と・・・。
   「しゅうちゃん、ごめんね。こんなアカリ嫌よね」
   「そんなこと、心配するな。ずっと俺がいる」
   「ずっといてくれるの? こんな暗いアカリでも?」
   「当たり前じゃないか、でも、自分で、わかるんだから、ぜんぜん大丈夫だよ。昔の自分じゃないって、少なくとも自分でちゃんと気づいてるんだから、それは病気じゃない」
   「病気? わたし、もしかして、病気なの?」
   「違うよ。子供の頃の記憶のせいだ」
   「・・・・」

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第3回 

© hitonari tsuji



   アカリの顔から再び光が消える。明らかに分かる感じで顔色が変化した。眉間に皺を寄せたことなど、かつては、なかった。今、目の前にいるアカリは、出会った頃のアカリとは別人であった。リンゴも生まれ、母親になった今の時代のもう一人のアカリ・・・。
   「母さんの知り合いが、この先の町で心療内科をやっている。心療内科っていうのは、聞きなれないかもしれないけれど、今の若い人はよく利用している、心の相談所みたいなところのことで、誰にも言えない心の苦しみを、先生がこっそりと聞いてくれて、アドバイスをくれるんだよ。お薬が処方されることもあるそうだ。そうすることで、自分と和解っていうの、難しい言葉、わかんねーけど、心の深いところと折り合えるんだって。一度、どうだろう、予約するから、行ってみるか? 楽になるし、昔の自分を取り戻すことが出来るかもしれない」
   アカリが俺を睨めつけてきた。
   「わたし、気がおかしくなったってわけ?」
   「そうじゃないけれど、昔のアカリとは明らかに違うし、毎晩、泣いているの、よくないじゃん。自分で考えてみろよ、やっぱ、昔のお前とは違うよな? 俺には何もできないからさ、専門家に相談をするのがいいんじゃないかな」
   「そいつ、何の専門家なの?」
   「だから、先生だって、心の」

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第3回 

© hitonari tsuji



   アカリは黙った。俺はもう、何も言えなくなってしまった。火に油を注いでしまった。その日は「一緒に寝ない」と言いだし、アカリは床でタオルにくるまって眠ってしまう。
   そんなある日、来るべき時が訪れてしまった。
   その日を境に、それが、そのこと全てが、決定的となった。俺はいつものように港に出かけ、太陽が真上に上るまで、いつものように魚の区分けの仕事をやった。昼になると、父と共に家に戻って、テーブルにつこうとしていた時のこと。リンゴがよちよちと奥から歩いてきた。後ろから、アカリが見守るようについてきた。おかえり、とアカリが言ったので、ただいま、と俺が言ったその次の瞬間、不意に、リンゴがアカリを振り返り「ママ」と声にした。「マンマ」と発音したかもしれないが、少なくともアカリには「ママ」と聞こえた。驚いた顔をし、目を見開いたまま、動かなくなった。

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第3回 

© hitonari tsuji



   リンゴは朝から晩まで、「ママ」と言い続けた。赤ん坊が発する言葉は、アカリの心の亀裂をさらに大きく歪めていく。
   アカリは塞ぎこみ、ベッドの中から動けなくなった。母、マチ子がリンゴの面倒を見るようになると、ますます、アカリは自信を喪失し、顔からありとあらゆる表情が消え去ってしまう。人間じゃなく、ロボットのような、造花のような、感情のない石の塊のような、そこにいるのにいない奇妙な物体になってしまう。何も分からないリンゴが「ママ」と言葉を発し、アカリを追いかけまわすようになると、その姿と自分の幼少期が重なるようで、アカリはまるで亡霊に追いかけ回されるような恐怖心をあからさまに出し、怯えて、逃げ出すことさえあった。これはもう、医者に相談をするしかなかった。
   「そんなところに行きたくないって、何度も、言ったよね。わかってるもん、自分のことくらい」
   「でも、分からないこともある。医者に相談をして、心を楽にする方がいい」
   「いやよ!」
   俺は説得を続けた。俺が想像をするよりも、その何十倍ものトラウマが彼女に襲い掛かっているようだった。アカリの心の中が見えないことが歯がゆかった。アカリがどんな亡霊と闘っているのか、理解してやれないことが苦しかった。
   夜にうなされるアカリ、俺は毎晩、彼女を抱きしめて、彼女が溺れないように必死で寄り添った。でも、明け方には仕事に出ないとならない。リンゴは母親と一緒に寝るようになっていた。リンゴの夜泣きがひどい時もあったので、とにかく、引き離すしかなかった。家は狭かったし、リンゴの声はよく響き、アカリは耳を塞ぎ、しかし、俺は働かないとならなかった。
   アカリがいなくなったのは、病院の予約をいれていた日のことだった。マチ子から携帯に連絡があり、アカリが出て行った、と告げた。俺はすぐに家に飛んで帰った。リンゴを抱えて困惑する母親に、何があったのか、と訊いた。
   「わからない。突然、荷物を持って家を出て行った。どこに行くの、と訊いたんだけれど、何も言わなかった。でも、これを手渡されたの。これ、何かしら」
   母親が俺の手の中に置いたものはアカリのエアタグであった。

 次号につづく。

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第3回 

© hitonari tsuji



辻仁成、展覧会情報

2026年、1月15日から、パリ、日動画廊、グループ展に参加。(辻仁成以外は、Henry Zers, Pierre Lesieur 彫刻のPatrick Blochの3氏)
※ 作品については、下記のアートサイトをご確認ください。
2026年、11月には、フランスのリヨン市で個展が決まりました。

辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学



posted by 辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。