連載小説
連載小説「泡」第四部「地上、再び」第5回 Posted on 2025/11/28 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第四部「地上、再び」第5回
「それに、心を病んでいるなら、今のアカリがおとなしく、しゅうさんの家に素直に戻るとは思えない。ちょっと時間が必要だし、たぶん、わたしもやってみるけれど、アカリが今、何を考えて、どこへ向かおうとしているのか、ちゃんと見極める必要があると思うのよ。もし、根本的に心が崩壊しているなら、もっともっと時間がかかるんじゃないかしら。きっと、アカリはあそこから出ない。あの街しかないから、あそこにしばらくい続けるでしょう。高沢姉妹の影響下にあるのは事実だろうから、あ、そうそう、最新情報がもう一つあった。姉の雅代も、とっくに戻って来ているみたい。警察と司法取引をしたらしい。罪を認め、かなりの罰金を支払って、一件落着となった。それと、彼らが描いた藤田嗣治の贋作なんだけれど、購入した人たち、たぶん、美術館関係者とかコレクターたちね、やっぱ、贋作を見破れなかったことをあまり公にされたくないらしい。とくにオークション会社。贋作を仲介したのは彼らだから、みんな恥を晒せないじゃん。つまり、一番肝心なところでは、一件も訴訟にさえ至ってないんだそう。ほぼ、和解と時効で大きな罪にはなってないの」
アケミの世の中の仕組みを晒すような言葉が、むなしく、俺の怒りの荒野に降り注いだ。そんなことはどうでもいい。そんなことに振り回されたくない・・・。
「とにかく、今、飛び込んだら、一巻の終わり。しゅうさんは、リンゴ君をお父さんのいない子にさせちゃダメだからね。一緒に作戦を考えて、じっくりと時間をかけて、アカリの心を取り戻しましょう」

© hitonari tsuji
携帯を切った後も、俺は、ぎすぎすした心のスイッチを切ることが出来ずにいた。悶々としたまま、眠れない夜をやり過ごした。確かに、今、俺があの街に飛び込んでいくのは、飛んで火にいる夏の虫、のようなもので、危険極まりない。でも、このままじっとして何もせず、魚の区分けだけをやっていることも出来ない。何か、方法があるはずだ、と思った。今の俺に出来る方法を俺は俺なりに考え、行動しないとならなかった。
数日、俺は港で現実から逃避するために働いたが、働ければ働くほど、虚しさと悲しみが募っていった。そこで、リンゴを母に任せて、ある朝、俺は漁港へは向かわず、あの街へと足を向けることになる。もちろん、アケミが言うところの作戦などがあるわけでもなかった。ただ、じっとしていられなかった。じっとしていられるわけがない・・・。

© hitonari tsuji
午後、懐かしい街に着いた。あれほどの乱闘を繰り広げた土地とは思えないほどに、昼間の街は穏やかな時間の流れの中にあった。変装のために、ニット帽、伊達眼鏡とマスクを買った。ひとまず、偶然、アカリとばったり出くわすかもしれないので、高沢育代が開催している個展会場となっているギャラリーの下見に向かう。昼ということもあり、夜とは違って、不夜城として知られる歓楽街はまだ微睡の中にあった。早い時間だからか、その界隈の地回りのような連中とも遭遇することはなかった。ホストクラブなどの前も通ったが、呼び込みもおらず、閑散としていた。ただ、ギャラリーだけは、若い人でそこそこ賑わっていた。通りの反対側から暫く様子を眺めていたが、アカリの姿はなかった。高沢育代も雅代もいない。ここまで来たのだから、と俺は中に入ることにした。もし、ここにアカリがやってきたなら、どうする気だったのだろう。自分でも分からなかった。壁には、アカリの裸体画が等間隔で陳列されてあった。見たことのある作品もあったが、知らないものもあった。複雑な心地になる。家には何も知らないリンゴがいる。アカリはリンゴのことを考えることはないのだろうか・・・。そこまで心が壊れている、ということなのか・・・。
気になる作品があった。その絵は、全裸上半身のアカリだったが、そのアカリを背後から抱きしめている手も描かれてあった。背後が暗がりなので、その人物が誰か、分からない。ただ、その手は、アカリの胸を隠している。黒いマニキュアが爪に塗られてあったので、しかも細く男性のそれではなかった。育代か、雅代の手かもしれない。空想で描かれたものだろうか、或いは、そのような状況に置かれたものを写したものか・・・。困惑するような不思議な表情を浮かべているが、この画布の中のアカリは、常に、悲しみというのか、憂いというべきか、或いは不安の中に浸かっているような、どことは言えない場所を、ためらうようにぼんやりと見つめている。それは、付き合いだした頃の、俺がよく知る元気なアカリでもなく、怯え毎晩泣いていたアカリでもなかった。
その時、入り口周辺の若い客らが、ざわざわと動きだした。高沢育代、もしくは、雅代の、どちらか判断はできないが、たぶん、そのどちらかが、入店したのだ。個展会場ということを考えると、高沢育代である可能性が高い。その女は画廊の女性スタッフと立ち話をしはじめた。俺は、名乗り出てもよかったが、アケミの忠告を聞いて、ここはひとまずニット帽を目深にかぶり直してから、そこを去ることにした。絵を見るふりをしながら、彼女と視線が合わないように横に移動し、そのまま、外へと出た。外に出て振り返ったら、高和育代らしき女が、こちらを見ていた。数秒、目が合った。何か気になったのかもしれない。こんな顔だったか、と思うほど、柔和な表情をしている。陽だまりの中に立ち尽くす、中年の女・・・。
怒りを隠し、素知らぬ顔を偽り、視線を逸らし、そこを離れた。少しして、再度、振り返ると、女は若い客らと話し込んでいた。周辺をうろつき、そして何度か、画廊の前を過ってみたが、アカリの姿はなかった。俺はポケットに手を入れた。そこにはアカリが母に手渡したエアタグがあった。

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俺は、その後、中央駅周辺の地下街を歩いた。あてもなく歩いたが、出来ることなら、仙人を探しだしたかった。彼と最初に出会った地下道の交差点まで行き、見回す。無表情な顔で、大勢の人々が急ぎ足で俺の前を素通りして行く。何を急いでいるのだろう、と思った。あの日、仙人に、「座って眺めてみろ、違う世界が見える」と言われた。自分だけ取り残されたような不思議な気持ちになった。そして、常識から離れることの真を悟る入り口を見つけることになった。しゃがんで、行きかう人を眺めていたが、いくら時間が過ぎても仙人の姿を捉えることが出来なかった。この場所で、あの乱闘が起きた。鉄の棒で腕を砕かれた時の痛々しい感触が脳裏を掠める。
コインロッカーの横に地下世界へと通じる扉があった。そこを下れば、もしかしたら、会えるかもしれない、と思った。周辺を見回し、辺りに人がいないのを確認した後、立ち上がると思い切って、ドアノブを回し中へと踏み入ることになる。階段を降りると、地下駐車場に出た。そこはこの周辺に荷物を届けるトラックなどの搬入口でもあった。微かな記憶を頼りに、かつて、仙人たちの住処へと下る通用口があったことを思い出し、あちこち、探した。搬入口の奥にある鉄扉を押し開けて、さらに、そこから階段を降りることになった。記憶は曖昧だったが、そこを上ったり、下ったりした記憶が残っていた。まもなく、俺は水路に出た。地下を流れる巨大な水路で、かつて一度、仙人に連れて来られたことがあった。地底世界の入り口のような暗く複雑な水脈の合流、まるで貯水池のような世界が広がっている。天は夜空のように暗く、そこに、2,3点輝く金星のような、たぶん、非常灯が灯っていた。水路に沿って人間一人が歩けるだけの出っ張りがあった。そのコンクリート路を仙人と歩いたことを思い出した。俺は水路の流れに沿って、その狭い、滑った路を歩き続けた。ここで仲間たちの葬儀もやる、と仙人は言った。そこを流れる水がどこへ辿り着いているのか分からなかったが、流れがあるということは、そっちが下流となり、やがてその先の先で海と繋がっている可能性もあった。数分歩くと、小さな階段があり、覗くと上の方に微かな光、光とは言えないまでも何かに反射をする光の淵が見えた。もしかすると地底人たちの集会所の一つかもしれない。腰くらいの高さのところに、太いロープが、登山道の手すり用固定ロープのごとく括り付けられてあった。きっと、それを掴んで、上り下りをしているに違いなかった。俺はロープを掴んで、登った。まもなく、微かに話し声が聞こえてきた。誰かがいる。仙人の仲間たちかもしれない。俺の気配を察知したのか、話し声が止んだ。そして、俺はやや広い空域に出た。気配があった。闇の中で、こちらをじっと凝視する複数の眼光と出くわした。
次号につづく。
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辻仁成、展覧会情報
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2026年、1月15日から、パリ、日動画廊、グループ展に参加。
2026年、11月に、3週間程度、フランスのリヨン市で個展、予定。詳細は後程。
2026年、8月、東京での個展を計画しています。詳細は待ってください。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。



