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連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第7回 Posted on 2025/12/01 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第四部「地上、再び」第7回    

   夕刻だからか、場所がらか、ギャラリー内は若い人たちで溢れていた。キャンバスに描かれたアカリの身体と顔が、それを真剣に覗き込む人々の後頭部を通して、俺に何か「憂い」のようなものを届けてくる。実物にそっくりというより、確かに、高沢育代が描くアカリの絵には、近づき難い神々しさが漂っている。神ではなく、堕天使のごとき、深い憐れみが滲みだしている。それは、施設で働いていた高沢育代だから描くこと出来た、幼い頃のアカリの悲しみの具現化なのかもしれない。アカリがなぜ裸じゃないとならないのか、その一点が分からなかったが、一糸まとわぬ裸婦像には、どこか、人間界の憎しみを寄せ付けない無垢な魂の彷徨が感じられる。わずかに、その皮膚の色が、乳白色で描かれているのも、悲しみを纏った天使の崇高さを表現しているように見えなくもない。難しいことは俺には分からないが、アカリなのに、その内面を見事に描き出している芸術作品なのかもしれない。そうだとしても、俺に必要なのは、生きている生身のアカリであり、リンゴの母親であるアカリだった。
   ふと、腕を掴まれたので、我に返り振り返るとアケミが立っていた。アケミは、何食わぬ表情を装いながら、俺に近づくと素早く耳打ちした。
   「しゅうさん、あんた死にたいの?」
   「いいや、そうじゃない。きっかけを探している」
   「ここのすぐ傍のビル、ニシキさんの事務所が入っているって、言ったわよね。目と鼻の先なのよ。この周辺はニシキさんの息がかかっている店ばっかよ」
   「アケミ、大丈夫だよ、変装しているから。お前、これからホストクラブ出勤か?」
   「ええ。着替えようとしていた時だった。わたしの店も、ここのすぐ、真裏にあって、系列が違うのに、そこにもニシキさんから、しゅうさんを探せと連絡があった」
   「そりゃあ、人気者だね」
   「ふざけないでよ、見つかったら、アカリを取り戻す前に、終わるからね」
   人が過ったので、俺たちは口を噤んで、絵に視線を向ける。目の前にアカリの裸婦像があった。アケミがもう一度、俺の腕を掴んで、引っぱった。

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第7回

© hitonari tsuji



   「出よう。夕方だから、街は目覚める直前、今なら、まだ逃げられる。わたしが逃がす」
   「大丈夫、そこまで俺もバカじゃない」
   気配を察知し、アケミが入り口を振り返った。高沢育代が入って来た。画廊に集まった人々の視線を集めている。すると、まもなく、不意にアカリが姿を現した。付き添っているのは、高沢育代によく似た女性で、たぶん、ミルコに違いない。雅代という名前らしいが、そんなものはどうでもいい。
   「しゅうさん、どうする? 」
   俺は、ポケットから、アカリのエアタグを取り出した。
   「これをあいつに返さないとならない」
   「何、それ」
   「俺たちの結婚指輪みたいなものだ」
   「言ってる意味がわからないけれど、わたしといるとアカリがしゅうさんに気が付いちゃうから、わたしが囮になる。アカリと話しているあいだに、出て行って」
   「なんで?」
   「なんでって、ここで騒動を起こしたら、ますます、やばいじゃん」
   高沢育代が人々に囲まれ、アカリを紹介しはじめた。会場にいる人々が彼らに近づき、自然と輪が出来た。アケミが俺の腕を掴んで、行きましょう、と耳打ちする。俺は動けなかった。目の前に、アカリがいる。それは俺の妻であり、リンゴの母親なのだ。
   「しゅうさん」
   アケミが小さな声で、けれども緊迫した声で、言った。俺は決意を持って、そこにいた。出会った頃の泡のような俺たち、そして、もはや消えかかっている泡でしかない二人。この世界で出来ては消える無限の泡の一つに過ぎないかもしれない。でも、まだ、消えちゃいけない。消しちゃいけない。泡のようになっちゃいけない。まだ、間に合う、と俺は信じてもいた。でも、方法が分からない。どうやって、閉ざされたアカリの心に再び笑顔を取り戻すことが出来るのか・・・。ただ、じっとしているわけにもいかなかった。方法なんかより、いつものことだけれど、まず行動だ、真っすぐ向き合うことしか、俺には突破する手段がない。泡が弾ける前に・・・。

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第7回

© hitonari tsuji



   人々の輪の中にいるアカリが、まもなく、アケミに気が付いた。驚いた表情をしたその次の瞬間、隣にいる俺に目がとまった。最初は、分からないようだったが、数秒して、その目が大きく見開いた。
   「しゅうさん、出よう」
   アケミがもう一度言った。俺は真空の中にいた。視界にはアカリだけが見えていた。騒音が消える。心の中で、アカリ、と叫んだ。しばらく目を伏せ躊躇った後、アカリは決意するような顔になり、俺に向かってやってきた。そして、俺の前で立ち止まると、
   「しゅう、早く、帰って。ここにいちゃダメだよ」
   と、アケミと同じようなことを告げた。俺は握りしめていたエアタグをアカリの顔に向けて、差し出した。
   「帰るから、これを受け取って貰いたい。これを届けに来た」
   「・・・」
   アカリの手に無理やり手渡そうとしたが、アカリはその手を力任せに振り払い、早く帰って、ここにいちゃダメだって、と強く吐き捨てた。その声で、周囲の人々がこちらを振り返った。
   アケミが口早に、客の中にハラグチさんのDJがいる、ここから出ましょう、気づいたみたい、とせっついた。
   「リンゴがお前を探している。思い出してほしい。お前だけがリンゴの母親なんだよ。他の人じゃつとまらない。戻ってやってもらえないか」
   「しゅう、お願い、帰って、とにかく、ここから出て行って、今すぐ!」

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第7回

© hitonari tsuji



   高沢育代がやってきて、アカリの横に立ち、俺を睨みつけた。そして、雅代が小走りで飛んでくると、俺の腕を掴んだ。
   「しゅうくん、わたしのこと、わかる? ミルコよ。余計なことは言わないけれど、少し、時間をください。アカリは今、苦しんでいるところだから・・・。それに、ここに君がいるとまた大変なことになる。あとで、ラインするから、今は大人しく帰って」
   「・・・・」
   「アカリ、これを受け取れよ」
   エアタグをもう一度差し出したが、アカリは視線を逸らし、自分の足元を怖い形相で睨めつけるのだった。 


次号につづく。

  
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辻仁成、展覧会情報

2026年、1月15日から、パリ、日動画廊、グループ展に参加。
2026年、11月に、3週間程度、フランスのリヨン市で個展、予定。詳細は後程。
2026年、8月、東京での個展を計画しています。詳細は待ってください。

辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学



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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。