連載小説

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第10回  Posted on 2025/12/04 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第四部「地上、再び」第10回    

   雨脚が強まった。雑居ビルの軒下に潜り込み、降りしきる雨を凌ぎながら、これからどうするべきか、考えた。ラインに『次はアカリだ。覚悟しとけ』とニシキによって打たれたと思われる敵意丸出しの文字が刻まれている。アケミの携帯を、瀕死のアケミの顔を使って認証させ、その写真を撮影し、俺のラインへと送りつけて来たのに違いない。くそ野郎が!
   俺に出来ることは、アケミの仇をとることと、アカリを守るために出来る限り素早くニシキを叩き潰し、この街から排除することだった。そうじゃなければ、次はアカリが同じ目にあってしまう。でも、どうやって。どうやって、そんなことが可能だろう? 
   俺一人でやつらに勝てるとも思えない。でも、アカリが同じ目にあうのを防ぐためには、刺し違えても、奴らと渡り合うしかなかった。警察に通報をするという選択肢は俺にはない。この街にはこの街のやり方があった。じゃあ、どうやって、やるか、だ。怒りに震えながらも、俺は奴を叩き潰す方法を必死で考え続けた。目には目を、やつらがアカリに手を出す前に、今すぐ、ニシキを潰す・・・。
   俺は頭を冷やすために、雨に濡れながらもその周辺をぐるぐると徘徊した。頭を整理しようとすると、痛々しいアケミの顔が脳裏で明滅を繰り返す。 
   まず、アカリにこの状況を知らせる必要があった。自分に危険が迫っていることを認識させないとならない。アケミの痛々しい写真をミルコとアカリの双方にラインで送付した。まもなく、既読となった。まずは、アカリを避難させることが先決だろう。アカリが高沢姉妹の協力を得て、一時的に身を隠しているあいだに、ニシキを叩き潰すのがベストの流れとなる。
   やつらの狙いは俺なのだ。俺があいつらの前に出て行けば、アカリへの被害を最小限に食い止めることが出来る。ミルコから、通話の着信があった。

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第10回 

© hitonari tsuji



   「しゅうくん。これは何?」 
   ミルコの声が俺の鼓膜を擽った。その低く安心感のある声は昔と変わらない。
   「アカリの親友の、アケミというホストなんだけれど、ついさっき、ニシキたちにやられて、救急車で運ばれてしまった。俺とアカリを繋ぐ役割をずっと担ってくれた、いいやつだった。アケミの携帯が奪われ、俺の携帯にこの写真が送り付けられてきた。そして、一言メッセージが入っていた。次はアカリだ、覚悟しろって」
   ミルコは黙った。何が起きているのか、どうするべきか、考えているようだった。数秒の沈黙のあと、
   「しゅう君、どうするつもり、バカなことはしないで、地元に戻るべきじゃない? ここでこれ以上のもめ事を起こすのは得策じゃない」
   と珍しく張り詰めた声で忠告をしてきた。
   「そうはいかない。アカリが狙われてしまう。あいつらの目当ては俺だから、俺が出て行くしかない。すまないが、あなたたちでアカリをしばらく守ってもらいたい。1日、二日で解決させる」
   「そんなの、無理!バカなことしないで! しゅう、リンゴのところに戻って、今すぐよ!」
   横から、アカリの引き裂くような声が割り込んできた。スピーカーで聞いていたのに違いない。ミルコがアカリを宥めながら、冷静な意見を戻してきた。

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第10回 

© hitonari tsuji



   「しゅう君、ニシキさんの事務所にはナイフや拳銃があるかもしれないし、向こう見ずな連中が大勢いる、あなたを探している連中が・・・。そんなところに飛び込んで行っても、生きて帰れるわけがない。そしたら、お子さんはどうなるの。ここは、よく考えなさい。アケミさんはかわいそうだったけれど、これ以上、犠牲者を出さないことが大事だし、これはもう、警察に任せた方がいい。しゅう君が出来ないなら、わたしがこの写真を警察署に届けることも出来る。そうすれば、事件として捜査が入るでしょうし」
   「警察が入っても、下っ端が逮捕されるだけだから、根本的な解決にはならないんですよ。やったのは、こいつですって、下の下が警察に突き出されるだけ。問題はニシキで、あいつと向き合う方がまず先決なんだ」
   静かになった。通話の向こう側で、意思の確認が行われている。
   「アカリ、聞いているか?」
   返事はないが、そこにいて、耳を澄ませているのが分かる。
   「俺に、もしものことがあったら、リンゴにはお前しかいなくなる・・・。かわりに、お前がリンゴを育てろ。いいな。お前は世界でただ一人の母親だ。それは神様が決めたことだ。そのことを忘れるな。トラウマとか過去なんか関係ねー、あるのは今だけだ」
   「しゅう、ダメ・・・」

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第10回 

© hitonari tsuji



   俺は、電話を切った。すぐに着信があったが、もう、出ないことにした。やるしかなかった。ニシキが事務所にやってくるタイミング、その前後の、奴が一人になるタイミングを見計らい、奇襲する。ことを荒げたくはないが、ニシキを黙らせなければ、次はアカリだ。アカリに手を出させないためには潰す。それがここのルールだ。不必要な泡は叩き潰すしかない。俺は決意を固めた。
   でも、いつ、どのタイミングで、ニシキが一人になるか、見当もつかない。何処に住んでいるのかも分からない。アケミが排除されたので、情報を得る術がない。ニシキが一人になる瞬間、もしくは2,3人になったところを襲撃するのがいいだろう。俺は周囲を警戒しながら、ニット帽を目深にかぶって、ニシキの事務所の近くに最大限に用心をしながら行き、潜める場所がないか、怒りを堪えながら、周到に探すことになった。
   ニシキの事務所周辺にはホストクラブやキャバクラが犇めき、身を隠せる隙間すらなかった。ただ、少し先の角地に、取り壊しを待つ雑居ビルがあり、四方を分厚い養生シートで囲まれていた。裏に、関係者が出入りするための隙間があり、もちろん、そこはしっかりとロープなどで塞がれてはいたが、一部を破壊し、そこから中に入り込むことが出来た。工事は中断されたか、計画そのものが延期されているのか、取り壊し作業は放置されていた。むき出しのコンクリート、途中まで解体が進んだビル内部、機材は撤去され、隠れ蓑にはちょうどいい穴倉がぽっかりとそこに開いていた。ニシキの事務所がある側のシートを落ちていた釘で破って、覗いた。20メートルほど先に、ニシキの事務所が入る雑居ビルが見えた。これ以上の監視場所はない。時間はかかっても、やつが、一人になるタイミングをここで待つ。
   落ち着け、怒りや復讐心だけで行動しちゃならない。自分たちの未来を守るための行動であり、冷静さと忍耐力が試される。俺は空の石油缶を見つけ、それに座って、目を凝らすことになる。

 次号につづく。

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第10回 

© hitonari tsuji



辻仁成、展覧会情報

2026年、1月15日から、パリ、日動画廊、グループ展に参加。
2026年、11月に、3週間程度、フランスのリヨン市で個展、予定。詳細は後程。
2026年、8月、東京での個展を計画しています。詳細は待ってください。

辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学



posted by 辻 仁成

辻 仁成

▷記事一覧

Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。