連載小説

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第11回  Posted on 2025/12/05 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第四部「地上、再び」第11回    

    俺は息を潜めてニシキたちの様子を窺い続けた。これはきっと長期戦になる。身体を休ませながら、襲撃のタイミングを計ることになった。
   時々、解体途中のビルの裏から抜け出し、近くにあるコンビニに紛れ込み、携帯を充電したり、食べ物、飲み物を買い漁ったりした。ニット帽を目深にかぶり、メガネにマスク・・・、さすがに気づかれることもない。目立たぬよう出来る限り小さく行動をとった。しかも、灯台下暗し、まさか俺がこんな場所に陣取っているとはだれも思うわけがない。携帯の充電が終わると、俺は再び、気づかれぬよう工事現場に戻り、シートの穴から、監視を続けることになった。
   昼過ぎになるとちゃらちゃらした格好の半グレたちが、駆け足で雑居ビルの中へと飛び込んでいく。5階建ての小さな雑居ビルだが、4階より上は窓がベニヤ板などで完全に封鎖されており、使われている形跡がない。2階が怪しげなマッサージ店だったが、3階には人の気配があり、出入りを繰り返していた若いのが、一度、窓を開け、そこから顔を出し、煙草を地面に放り投げた。3階が事務所である可能性が高い。どちらにしても、ニシキは必ずやって来る。俺は体力を温存するため、時々、仮眠をとりながら、その時が訪れるのを静かに待った。

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第11回 

© hitonari tsuji



   夕方、ズボンのポケットの中で、着信を知らせる振動があった。携帯を取り出し、覗くと、アカリからだ。仙人のことばが脳裏を掠める。
   『真実の気持ちを届けることが出来れば、その人は再びお前の元に戻る。その気持ちがどのようなものか、どのように届けるべきか、それは自分を信じて、自分で考えるしかない』
   俺は雑居ビルの入り口を凝視しながら、携帯を耳に押し付けた。
   「もしもし、しゅう」
   アカリの声が耳元で弾ける。俺が通話に出たことで驚いている様子だった。声が少し上擦っている。
   「どこにいるの?」
   「・・・どこでもいいだろ」
   「しゅう、お願いだから、一刻も早く地元に戻って」
   「お前が戻るなら、一緒に戻るよ」
   「わたしは無理。ごめんなさい、まだ、自信がないの」
   「じゃあ、俺もここでニシキを待つ」
   「どこで?」
   「どこでもいいだろ」
   「なんでそんなにバカなの? ニシキの上にはもっと怖い人たちもいるのよ。ニシキ一人だけじゃない、この街全部を敵にまわしちゃう。いくらしゅうでも、勝てないよ」
   「勝つとか負けるとかじゃねーんだよ。けりをつけなきゃ、気持ちがおさまらないの」
   「だから、けりなんか、つけられるわけないじゃん」
   「じゃあ、一生、逃げ回って生きていく気か? りんごはどうする。一緒に逃げ回るのか? ニシキはあの手この手で俺を探し出す。でも、よく考えてみろ。他の下っ端にそんな度胸はない。プライド傷つけられたニシキだけが俺を血眼になって探している。他の連中なんか、目じゃねー。ニシキさえ、叩き潰せば、あとは泡みたいなやつらばかりで、恐れるに足らず。俺たちは安全に暮らしていける」

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第11回 

© hitonari tsuji



   「しゅう、ニシキさんは私をアケミみたいにすることはないのよ」
   「なんでそう断言できるんだよ」
   「それだけは絶対にない。あのメッセージはしゅうをおびき出すためのもの」
   嫌な予感がした。
   「だから、なんで、そう断言できるのか言ってみろ」
   「・・・昔のことだけれど、ニシキに求愛されたことがあった。あの人、真剣だった」
   「くそ野郎! お前、ヒロトとも付き合ってたって言わなかったか?」
   「ヒロト君とはそういう仲じゃない。同世代のじゃれ合う関係。でも、ニシキさんは、恩人だったし、わたしを大切に扱ってくれた」
   俺は奥歯を噛み締め、怒りが溢れるにまかせて、ビニールシートを殴りつけてしまう。くそ野郎!
   「しゅう、待って、落ち着いて!」
   「うるせー」
   「早とちりしないでよ。付き合ったわけじゃないし、あなたが想像するような下衆な関係でもない。ただ、あんな人でも、ニシキさんはわたしに本気だった。一度、真剣に、結婚したいって言われたこともあった」
   俺は目を閉じ、嘆息を溢した。怒りで、爆発しそうだった。
   「でも、聞いてほしい。わたし、ニシキさんとお付き合いする気はなかったし、彼とは手をつないだこともない。結婚なんて、とんでもない。でも、それくらい彼はわたしには紳士に向き合ってくれたのよ。ニシキさんは、生涯を共にする相手じゃないことは分かっていた。だから、ずっとはぐらかしてきた。ニシキがしゅうを目の敵にするの、もしかしたら、そのことが一因しているかも」
   「・・・くそ」

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第11回 

© hitonari tsuji



   「わたしは、ちゃんとした家族を持ちたかった。ああいう世界で生きたくなかった。真面目に働いて、わたしの家族を守ってくれる人を探し続けた。自分の過去を払拭してくれる人が必ずいるって、信じてもいた。だから、しゅう、君を選んだんじゃない。ラーメンを作るあなたの一生懸命な姿がわたしの長年探し求めていた理想の男性像だった。一杯のラーメンに全力で挑んでいるしゅうが素敵だった。だから、しゅうの子供が欲しいと思った。でも、不安はいっぱいあったわよ。トラウマや自分の出自のせいもあるし、こういう世界で長く生きてきたから、まともに生きるということがよく分からなかった。でも、一つだけ言えることがある・・・」
   その先の言葉を俺は待った。アカリは、必死で、自分を抑制しようとしていた。吐き出す息が、俺の耳に迷う気持ちを届けてくる。言葉を選んでいるのが分かった。
   「わたし、決して汚れてない」
   アカリが吐き出した言葉に、俺はわずかに驚き、息が止まる。
   「わたしはこの世界、この街に守られてきたけれど、ここの悪事に加担したことがない。わたしは人間としてまともに生きようと必死だった。こんな世界であっても、綺麗に生きることだけを夢見て生きてきたのよ。それだけは信じて・・・。普通の幸せがわたしの夢だった」

次号につづく。

連載小説「泡」 第四部「地上、再び」第11回 

© hitonari tsuji



はい、来月、パリの日動画廊、グループ展に参加します。
1月15日からです。
3月7日まで、パリの日動画廊。
それから、8月前半に一週間程度、個展を開催いたいます。
今回のタイトルは「夢幻泡影」です。(予定)
タイトルは突然かわることがございますので、ご注意ください。
そして、11月に3週間程度、リヨン市で個展を開催いたします。詳細はどちらも、決まり次第、お知らせいたしますね。
お愉しみに!

辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学



posted by 辻 仁成

辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。