連載小説
連載小説「泡」第五部「それが存在するところ」第3回 Posted on 2025/12/19 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第五部「それが存在するところ」第3回
「小さな命」は今日も元気だ。仕事から戻って来た俺を待ち構えるかのように、玄関口で仁王立ちし、たぶん、バーバに帰って来たことを知らせるために、戻って来た俺を何度も指さし、「パパ、パパ」と言った。俺の背後からジージが脅かすように顔を出すと、さらに大きな奇声を振り絞って、きゃっきゃ、と騒ぐのだった。家中が、笑いの渦に包まれる。仕事がどんなにきつくても、悩みがあっても、その瞬間は心が楽になった。バーバが作ったご飯の美味しい香りが狭い家の食堂を満たしている。俺は突進してくるリンゴから避けるように一旦風呂場に急ぎ、ジージと一緒に手を洗う。それから、リンゴを抱きかかえ、高い高い、をした。幸福に包まれているが、どんな時も欠けているものがあった。この子が生まれたばかりの頃、アカリはいつも暗い顔をしていた。泣いている時もあった。あの頃はジージもバーバもみんな誰もが厳しい表情を崩せなかった。今のこの幸せの瞬間をアカリと共有したかった。食卓の香りをアカリに嗅がせてやりたかった。笑顔を浮かべながらも俺はいつだって、アカリのことを思っている。
「今日はリンゴは、鶏肉をミンチにしたものをはじめて食べてるよ。上手に食べることが出来るかな。あ、ああ、やっぱり、手づかみになりました~。まぁ、しょうがないか。リンゴ、美味しいか? そうか、美味いのか、そんなに美味いか、そうかそうか、よしよし・・・。あ、俺もなんとか、おむつを上手に替えることが出来るようになったよ。食べたものが、ちゃんと消化されて、出てくるって、凄いことだよな。一人前にすでに臭いし、でも、その臭さね、なんか、ちゃんと生きているなって、思うんだよ。食事が終わったら、いつもの夕陽を見に散歩に行ってくる。じゃあな、俺はいつもここにいるからな」

© hitonari tsuji
今日、「小さな命」に会いに来た男がいた。仕事から戻ると、なんと、あの野本さんが、狭いキッチンにいて、俺を出迎えたのだ。昔、俺が提出した履歴書にここの住所が書かれてあったから、旅のついでに、様子を見に来たという。俺はびっくりして、言葉が出なかった。野本店主は俺の父、あきらに自己紹介みたいなことをしはじめた。おやじはハンチングをとると、薄くなった頭を下げて恐縮している。「いや、ちょっとどうしているかな、と思って。ほら独り身だからさ、今日、店休みだし、なんにもすることがなくて、だから、ふらっと来てみたんだけど、ええ場所やね。海岸がこじんまりしていて、なんかほっとするな。あとで夕陽見に行きたいな。しゅう、案内してくれ」そう言って黄ばんだ歯を見せてつけるように笑ったので、俺も両親もつられて笑顔になった。もちろん、リンゴも大人たちの顔を見まわし笑っている。その夜は、港の近くにある居酒屋で野本を囲むことになった。ちょうどその近くの民宿を予約しているのだという。父と野本さんが楽しそうに酒を酌み交わす光景は胸に迫るものがあった。「そうですか、うちのバカ息子がほんとうに世話になりました」と聞いたことないような畏まった口調で言いながら、父は野本さんのお猪口に酒を注いだ。俺の膝の上にはリンゴがいた。アカリの話題は誰からも出なかった。誰も触れなかった。ずっとニコニコして野本さんはリンゴを見ていた。ええな、男の子、ええやんな、しゅうに似て逞しい男になるで、と野本さんが言った。この数年のいろいろを思い出して言葉がつまって出てこなかった。何度も、酒で、それを胃に流し込まないとならなかった。よく見ると、野本さんの目が赤かった。メガネをしているし、その目が小さいせいで、目尻から涙がこぼれ出てはじめて彼が泣いているのが伝わって来た。
「今日はあの野本店主が電車とバス乗り継いでリンゴに会いに来てくれたんだよ。仕事から戻ると、いつはずがないあのごつい顔が俺を出迎えたんで、腰を抜かしそうになったよ。だから、ほら、お前とリンゴが生まれる前に、一度一緒に行ったことのある港の居酒屋でみんなで食事した。リンゴはあのごわごわの髭が気になったみたいで、時々、ひっぱっては、野本さんが変な顔して痛がってみせるものだから、大はしゃぎだったよ。で、疲れたのかな、今はこの通り、爆睡している。見てみろよ、この寝顔、なんていうんかな、幸せそのものだろ、落ち着く・・・。この通り、リンゴは順調に成長してる。だから、安心をしてほしい。今は、何にも考えないで、お前らしくそこで体調崩さないで生きていてくれたらいい。おやすみ、また、明日」

© hitonari tsuji
「小さな命」は今日も絶好調だった。そして、これまで、パパ、とか、ブーブーなどの単語しか言えなかったというのに、今日は不意に、「わんわん、いた」と通りを指さして言い出し、俺たちを驚かせた。二単語言葉とか言うらしい、二つの単語を組み合わせたものだって、母さんが言っていた。こいつ、人間みたいじゃん、と俺が思わず間抜けなことを言ったから、マチ子が、お前の子だから、ちょっと心配だったけれど、でも、良く喋るのよね、賢いのよね、と笑った。「わんわん、いたのか、大きなわんわんか?」と聞き返すと、「おっきィ」と手を広げて、その大きさを具体的に教えてくれた。「おっきーのがいたねー」俺はリンゴを抱きしめ、高い高い、をした。笑い声がまた、弾けた。この家には笑い声だけが弾けていた。
「アカリ、今日はリンゴの動画じゃない。俺は今、仕事が終わり、父さんはうちの軽で先に帰ってもらった。俺は、裏の道、お前とよく散歩をした海岸線沿いの、ほら、小さな浜辺がいくつか連なる、砂の道を歩いている。覚えているだろ? 漁港から、砂の道を通るとうちまで、20分ちょっとで歩いて帰ることが出来る。よく、一緒に歩いたよな。で、何が言いたいのか、と言うとだな、つまり、もしかして、この動画が負担になってないかな、って思ったからで、その、ええと、無理して見ないでもいいんだぜ、と言おうと思って・・・。既読になるから、見ているかもしれないけれど、それはそれで、好きにしてほしい。無理くりお前の心を開こうなんて思って毎日のように動画を回しているわけじゃなくて、でもさ、いつか、観たいと思う時にないと困るから、リンゴの成長の記録として回しておくから、保存だけしとけ。それだけを言いたくて・・・、この海辺をいつか、一緒に歩きたいよな。じゃあ、また、明日」

© hitonari tsuji
いつ何時、アカリから電話があってもすぐに出られるよう、携帯の着信音は最大にしてあった。仕事をしていたら、その携帯が鳴りだしたので、驚いて、取り出して覗くと「ミルコ」と画面に出ている。魚の区分けのピークだったから、その電話には出られなかったが、隙を見て、みんなから離れた場所に移動し、かけ直すことになる。
「ご無沙汰ています。お元気ですか」とミルコが低い声で、しかも、ちょっとよそよそしい口調で、言った。
「はい、元気です」
「今、大丈夫? 仕事中でしょ?」
「そうです。五分くらいなら、大丈夫」
「よかった。じゃあ、要点だけ話します。アカリは私たちと一緒です。あの子は毎日、君から送られてくる動画を見ているし、それを私たちにも時々、見せてくれます。リンゴ君、とっても可愛いわね。本当に可愛い・・・。天使のよう」
「ありがとうございます」
「それだけです。アカリの心が開くのにはもう少し時間はかかると思うけれど、でも、まもなく進展すると思います。もうちょっと辛抱をして、待っていてください。じゃあ、また、連絡しますね」
ミルコのライン通話はそれだけ告げると、不意に切れた。遠くから「しゅう」と俺の名を呼ぶあきらの声が届く。携帯をポケットに仕舞う前、俺は「探す」機能で、アカリの現在位置を確めた。まだ、あいつは、あの街の中にいた。青い丸が、あの歓楽地のど真ん中で灯っていた。
次号につづく。(第4回配信は、月曜日の0時頃を予定しています)
※本作品の無断使用・転載は法律で固く禁じられています。

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展覧会情報
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2026年の1月、パリの日動画廊で開催されるグループ展に参加します。
1月15日から3月7日まで。結局、11作品の展示となりました。フランス人巨匠も参加するグループ展だそうです。
GALERIE NICHIDO paris
61, Faubourg Saint-Honoré
75008 Paris
Open hours: Tuesday to Saturday
from 10:30 to 13:00 – 14:00 to 19:00
Tél. : 01 42 66 62 86
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それから、8月前半に一週間程度、東京で個展を開催いたいます。
今回のタイトルは「鏡花水月」です。(予定)
タイトルは突然かわることがございますので、ご注意ください。
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そして、11月初旬から3週間程度、リヨン市で個展を開催予定しています。詳細はどちらも、決まり次第、お知らせいたしますね。
お愉しみに!
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。



