連載小説

連載小説「泡」 第五部「それが存在するところ」第4回 Posted on 2025/12/22 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」  

第五部「それが存在するところ」第4回    

   「小さな命」といつもの浜辺で遊んだ後、家に戻ると、食卓に母、マチ子がこしらえた夕食、―カレー、みそ汁、サラダ、おしんこ―などが並んでいた。リンゴをベビーチェアに座らせると、赤ちゃん用の鳥そぼろカレーがリンゴの目の前には置かれた。リンゴは林檎が好きで、このカレーの中にもたくさん入っている。まだ、スプーンを上手に使いこなせないので、俺がそれをリンゴの口の中まで届ける。そうされることが当たり前のように、口の中に入れられたカレーをパクパクと噛んで喜んでいる。その姿に子供の成長を覚えた。つい、半年ほど前までは離乳食だったというのに、最近は、一センチ角の肉団子のようなものなら、なんなく食べることが出来るようになった。その分、うんちも臭くなった。うんちを一生懸命する時のリンゴの踏ん張る顔が可愛い。
   リンゴが食べながら遊び出したので、母と交代し、俺は大人のカレーに手を付けることになる。とくに会話はないが、全員が食べながらリンゴを見ている。そして、家族全員が微笑んでいる。俺はお替りをした。そして、疲れをとるためベッドで横になろうと思って、椅子を引き立ち上がったその時、不意に携帯が鳴りだした。家族全員、テーブルの上で通知音を鳴らす携帯へと視線が釘付けとなった。見覚えのない番号からである。一瞬、躊躇ったが、アカリからかもしれないので、出た。耳元に感情を伴わない男の声が弾けた。警察署の刑事だという。思わず身構えてしまった。アカリのフルネームを告げ、夫であることに間違いがないですか、と丁寧だが、どこか冷静な口調で告げられた。漏れた音声が聞こえるようで、両親も驚いた顔でこちらを凝視している。

連載小説「泡」 第五部「それが存在するところ」第4回

© hitonari tsuji



   「実は、本日、午後3時頃、・・・」
   刑事はこのような言い方で、その時間にあの街のど真ん中で起きた事件のあらましを説明しはじめた。淡々とした喋り方には恐ろしいほどの臨場感が漲っていた。誰かが俺を騙すために仕組んだ囮電話ではないことが、その冷静な説明の仕方やよどみのない口調から伝わって来る。理由が何で、どのような時間経過でそうなったのか、の説明は一切ない。起こったことを最小限の言葉で通達するに留めている。警察への通報者はアカリ本人で、死亡が確認されたのはニシキであった。俺は激しく驚き、思考が一瞬停止してしまう。けれども刑事は、伝えるべきことをこちらの気持ちなどお構いなく言い続けた。他に数名、病院に搬送された者がいると付け足した。
   「現在、捜査中の件でお話を伺いたく、署まで来て頂きたいのですが」
   「アカリは? アカリに何があったんですか?」
   「詳しいことは署でお話いたします」
   「アカリは無事ですか?」
   「奥様は現在、かなり動揺されておりまして、少し怪我もされているので、医師の診察を受けています。しかし、命に別状はありません。現在、事情を伺っているところですので、すぐに面会できるか、お約束はできませんが、ご本人がご主人のお名前を何度も口にされています。可能でしたら署までお越し頂けますか?」
   俺は父、あきらに漁港駅まで軽トラックで送ってもらうことになる。電車を待っているあいだ、ミルコに何度かライン電話を試みたが、繋がらなかった。「警察から連絡があり、今、警察署へ向かっている」旨のメッセージを残した。アカリに何が起こったのか何も分からないが、死亡したのはニシキだと刑事ははっきりと告げた。ということは、アカリが殺した可能性も否定出来ない。このもめ事の決着をつけるために、アカリは一人でニシキの事務所に乗り込んだ。話が決裂した場合は、ニシキと刺し違える覚悟で、ナイフを所持していた可能性もある。どちらにしても、最悪の展開になったことを俺は悟り、神経が逆立ち、身体の震えが止まらなかった。何も出来ないので、俺は携帯を握りしめ、何度もミルコにメッセージを送り続けることになる。

連載小説「泡」 第五部「それが存在するところ」第4回

© hitonari tsuji



   刑事から連絡を受けてから、3時間ほどの時間が経過していた。歓楽街に近い警察署に到着したのは22時を少し過ぎた時刻であった。総合受付のような場所で、名を名乗り、電話をかけてきた刑事の名前を伝えた。俺に出来たのはそこまで、後は警察の指示に従うしかなかった。
   受付の警官に言われるまま、俺は、その階にある会議室のような個室に行き、刑事を待つことになる。けれども、刑事はすぐにやってこなかった。どれくらいの時間、そこで待たされたのか分からない。もしかすると、10分とか15分程度、或いは30分、・・・、いいや、何年もそこで待たされているような果てしなく長い孤立を覚えた。その気が遠くなるような密室での孤独は、俺の脳裏に最悪の映像をいくつも投影してきた。俺は携帯を開き、ミルコへメッセージを書いて送った。自分が警察署の部屋にいることも伝えた。けれども、返事は戻らない。既読にさえならない。何が起きた・・・。張り詰めた意識が破裂しそうになった次の瞬間、その密閉された小部屋のドアが開き、刑事らしき男が入室してきた。男は俺の名前を確認すると、
   「さきほど、電話をしました刑事課の井上です。本日は突然、すみません」
   と、丁寧だけれど、事務的な口調で告げた。
   「あの、アカリはどうしていますか? 何があったのでしょう?」
   「奥様は現在、病院に入院されています。よければ、刑事課の面談室までご足労願えますか・・・。細かくお聞きしたいことがあります」
   俺は刑事の後に従った。この男の対応は、電話口の口調と同じように冷静で、まったく隙が無かった。こちらの心配など関係なく、常に一定の距離感を保っている。焦る気持ちを鎮めるしかない。ニシキが死んだのだ、とてつもない事件である。でも、アカリの容態、アカリの身と心に起こったことを想像しては、俺はますます混乱し、喉がカラカラになった。

連載小説「泡」 第五部「それが存在するところ」第4回

© hitonari tsuji



   面談室にはもう一人刑事がいた。二人と向き合う形で座らされたが、何が起こったのか、事件の詳細については詳しく教えて貰えなかった。もちろん、アカリにすぐに会わせてもらえるような感じでもない。どこの病院に入院しているのかさえもまだ教えて貰えていない。妻にすぐに会いたい、と伝えたが、医師の了承が出るまで、待ってください、と柔らかくもきっぱりと突き放された。今日一日の行動について聞かれた。普段何をしているのか、と問われた。まるで、俺が実行犯の一味ような、どこかで疑われているような物言いだった。俺は正直に、その質問一つ一つに答えていった。漁港での仕事の中身、どのような仕事か、場所はどこか、働く時間帯、今日の勤務時間などなど・・・。家に帰ってからの行動も一通り、赤ん坊と浜辺を散歩したこと、両親のこと、そして、アカリとの出会い、結婚に至るまでの大まかな時系列・・・。ただし、ニシキのグループと乱闘を起こしたことなど、警察に知られたくないことには触れないことにした。嘘をつくつもりはなかったが、聞かれない限り、余計なことは言わないことにした。二人の刑事はメモを取り続けた。刑事の応対は、淡々としていたが、冷たくはなかった。むしろ、妻のことを心配している俺を気遣う優しさもあった。優しいのに、常に距離があった。
   「刑事さん、何が起きたのか、もう少し、俺にも、教えて貰えませんか?」
   俺は我慢しきれなくなり、自分がアカリの夫であり、知る権利があることを主張してみた。その時、若い刑事がやや慌てるような感じで入室して来、二人に何かを急いで耳打ちした。刑事の目つきが変わった。
   「すいません。ここでもうしばらくお待ちください」
   井上刑事はそう言い残し、三人は俺の返事を待つこともなく、部屋を飛び出して行った。

次号につづく。

  
※本作品の無断使用・転載は法律で固く禁じられています。

連載小説「泡」 第五部「それが存在するところ」第4回

© hitonari tsuji



展覧会情報

2026年の1月、パリの日動画廊で開催されるグループ展に参加します。
1月15日から3月7日まで。結局、11作品の展示となりました。フランス人巨匠も参加するグループ展だそうです。
GALERIE NICHIDO paris
61, Faubourg Saint-Honoré
75008 Paris
Open hours: Tuesday to Saturday
from 10:30 to 13:00 – 14:00 to 19:00
Tél. : 01 42 66 62 86

それから、8月前半に一週間程度、東京で個展を開催いたいます。
今回のタイトルは「鏡花水月」です。(予定)
タイトルは突然かわることがございますので、ご注意ください。

そして、11月初旬から3週間程度、リヨン市で個展を開催予定しています。詳細はどちらも、決まり次第、お知らせいたしますね。



辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学

posted by 辻 仁成

辻 仁成

▷記事一覧

Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。