連載小説
連載小説「泡」第五部「それが存在するところ」第6回 Posted on 2025/12/24 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第五部「それが存在するところ」第6回
人間の判断能力というものには限界があった。しかし、限界を超えるような出来事の連続の中にいたせいで、俺は不意に真空の中に浮かんでいるような、或いは重力がおかしくなってしまったような錯覚に見舞われる。俺のような単細胞の人間が、これほどの出来事に、瞬時に対応出来るわけもなかった。だから、俺の思考は停止し、糸が切れたように、肉体も精神も、その宇宙の中へと放り出されてしまった。
「あの、ちょっと、ちょっと待ってください・・・」
俺は頭の中を整理する必要があった。刑事たちは、黙って、俺を見守っている。俺は一度目を閉じ、冷静になるよう自分に言い聞かせる。真空の中に浮かぶ自分と対峙することになった。
少なくとも二人の人間が死んでいる。それもその原因の中心に自分がいる。警察に協力をしなければならない。しかし、何をどう説明すれば、どこからどう話しだせばいいのか、分からなかった。
「知っています・・・」
俺がそう告げると、何をですか、と井上刑事が優しい声音で訊いてきた。
「高沢ミルコです。育代さんの姉妹になります」

© hitonari tsuji
ミルコは育代が死んだことを真っ先に知る権利がある、と俺はまず判断をした。携帯を取り出し、ミルコの携帯に折り返しの電話をかけることになる。呼び出し音が鳴ったと同時に、ミルコが出たので、
「ミルコさん、警察の人が、育代さんのことをお話したいそうです。今、目の前にいるんですが、かわってもいいですか? ここまでの経緯をこの後、すべて話すつもりです」
と伝えた。
それから、井上刑事に携帯を手渡した。両者のやり取りが始まった。途中で、ミルコの嗚咽が、育代の死を聞かされた直後に、携帯から漏れてきた。俺は顔を伏せ、唇を嚙みしめることになる。
別の刑事がミルコと会うことになった。刑事課が一瞬、事件の進展を受けて騒がしくなった。面談室と刑事課の間を数人の刑事たちが慌ただしく行き来し、対応に追われた。そして、二人の刑事を前に、俺は核心部分に関する、さらに深い真実を付け足すことになった。どこからどう話せばいいのか分からなかったが、ここは正直に、思い付いたこと、気が付いたことを、話が重複したとしても、もう一度詳しく伝えることにした。刑事たちは再びメモをとりはじめる。
アカリと育代の長年の関係、育代とミルコが起こした贋作事件、そして、ニシキとアカリとの大まかな関係、半グレたちとの乱闘事件に至る経緯、実家に逃避しそこで二人が結婚をしたこと、まもなくリンゴが生まれたこと、そして過去のトラウマから、アカリは育児ノイローゼになり、この街に戻ってしまったこと、俺とニシキとのいざこざを終わらせるため、また息子のリンゴを守るため、アカリはニシキと直接話し合うため事務所に乗り込んだこと、育代が不意に同行することになったこと、などなど・・・、その時点で自分が把握出来ている事実、状況を、そのまますべて刑事たちに伝えたのだった。刑事たちは、時々、気になったことを質問してきた。

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「じゃあ、奥様が事務所に乗り込むことは知らなかったわけですね」
井上刑事が言った。
「知りませんでした。今日、刑事さんから電話があって、はじめてわかったのです。育代さんがアカリとニシキの事務所に乗り込んだことも、つい、さっき知りました」
「さっき? それは具体的にいつのことですか? 誰から?」
「今です。お二人が外に出ていた時にミルコさんから電話があり・・・」
自分が把握している大まかなことをほぼすべて伝え切ると、俺はひとまず解放されることになった。
「明日、何か進展があれば、もしかするともう一度、話を聞かせてもらうことになるかもしれません、いいですか? そして、医師の許可が下りたら、奥様と面会出来るようにしたいと思います」
井上刑事がそう告げ、今日の俺の役目は終わることになった。警察署の前にあるビジネスホテルに宿泊することにした。疲れ切った肉体を引きずるようにして、俺は宿まで歩き、携帯を充電するためのコードを借り、エレベーターに乗った。その中で、俺はアカリのエアタグの現在位置を調べることになる。アカリを示す青い丸がそこからそう遠くないところを指していた。この周辺ではもっとも大きな総合病院である。新たな場所に佇む青い丸をじっと見つめた。

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長いトンネルを歩き続けて、その先に灯る一点のごとき出口を目指す夢を見ていた。身体は重く思うように動かなかった。海底を歩いているような圧力を覚えながら、俺はその光の点を必死に目指した。その途中、またしても携帯が鳴りだし、俺は出口に辿り着く前に現実世界へと引きずり上げられてしまう。どこにいるのか、一瞬、分からなかった。カーテンの隙間から光が差し込むどこだか分からない場所で、電話に出ると、井上刑事からだった。昨夜、ビジネスホテルの一室で気を失うように寝てしまったことを思い出した。時刻はまもなく午前10時になろうとしていた。
「奥様との面会の許可がおりました」
そして、井上刑事が付きそうかたちで総合病院へと向かうことになる。とくに会話はなかったが、井上刑事はつかず離れず、俺に寄り添った。俺は、常に監視対象というのか、管理されているような状況下に置かれていた。
「今回は、人道的な配慮からの面会になりますが、あくまでも様子を見る程度にしてください。わたしは外で待っています」
病室に入る前に、主治医を紹介された。
「手から腕にかけてのナイフによる傷の状態ですが、現在は安定しているので問題ないと思われます。ただ、精神面ではまだかなり不安定です。患者さんの負担が大きくならないよう、5分とか10分程度でお願いします。刺激するような内容はくれぐれも避けてください」
井上刑事からの提案で、病室のドアは少しだけ開いた状態にされることになった。看護師に付き添われて入室した。アカリの心の中に忍び込んだような、白くて静かな部屋だった。そこは個室で、カーテンで仕切られていた。アカリは起きていた。俺に気が付き、目を大きく見開いた。どういう顔で向き合えばいいか分からなかったが、出来るかぎり刺激しない表情につとめた。アカリの目元にまもなく涙が溜まり始める。そして、口が震え出した。俺は近づき、アカリの肩に優しく手を置いた。右手には痛々しく包帯が巻きつけられ、固定されていた。アカリは声を押し殺して涙を流し続けた。そして、小さな声で、
「しゅう」
と俺の名を呼んだ。
次号につづく。
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展覧会情報
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2026年の1月、パリの日動画廊で開催されるグループ展に参加します。
1月15日から3月7日まで。結局、11作品の展示となりました。フランス人巨匠も参加するグループ展だそうです。
GALERIE NICHIDO paris
61, Faubourg Saint-Honoré
75008 Paris
Open hours: Tuesday to Saturday
from 10:30 to 13:00 – 14:00 to 19:00
Tél. : 01 42 66 62 86
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それから、8月前半に一週間程度、東京で個展を開催いたいます。
今回のタイトルは「鏡花水月」です。(予定)
タイトルは突然かわることがございますので、ご注意ください。
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そして、11月初旬から3週間程度、リヨン市で個展を開催予定しています。詳細はどちらも、決まり次第、お知らせいたしますね。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。



