連載小説
連載小説「泡」 第五部「それが存在するところ」最終回 Posted on 2025/12/26 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第五部「それが存在するところ」最終回
アカリから長い手紙が届いた。彼女は負傷した手で、どのようにしてこの長文を書くことが出来たのか、俺は想像しながら読んだ。きっと、人々が眠りについた後、暗い病室の限られた自由の中で、必死でこれらの文字を紡いだに違いない。
「しゅう、君がリンゴの元に戻った後、アカリは生きなきゃいけないなって思ったの。警察の人はわたしを刺激しないよう、はっきりとしたことは言わないのだけれど、ネットのニュースで育代さんとニシキさんが亡くなったことも知った。昨日、わたしからミルコさんにラインを送ったら、育代さんの火葬が終わったことを教えてくれたの。わたしのせいで、多くの人たちを不幸にしてしまったことは辛い。育代さんはきっと最初から刺し違えることを考えてナイフを用意していたのだと思うし、チャンスを待っていたんじゃないかな。あの人はわたしの育ての親のような存在だった。育代さんはわたしのことを自分の子供のように愛してくれたし、特別な存在としていつも、どんな時も、見守ってくれていた。しゅう君から送られてくるリンゴの無邪気な動画を、涙を流しながら育代さんは見ていた。わたしとミルコさんの前で、号泣したことがあった。あの時、育代さんは自分が犠牲になろうと思ったのだと思う。リンゴのためには、それしかない、と覚悟したのかも・・・。ごめんなさい。こんなことを書いて、どうなることでもないけれど、世間が面白がっている贋作師の育代さんは、わたしにとっては、かけがえのない存在だった。育代さんはわたしが選んだしゅうのことを最初疑っていた。でも、旅立つ前にはしゅうでよかったと思っていたと思う。だからこそ、大きな後悔は、育代さんにリンゴを会わせてあげられなかったことかな。ごめんなさい。ニシキさんのところへ向かう途中、育代さんがわたしにお守りをくれたの。あの街のはずれにある神社のもので、手渡された時、自分の幸せだけをお前は考えなきゃだめよ、家族と支え合って生きなさい、って言われた。無口な人だったけれど、はじめてはっきりとした声と意思で、わたしに母親のようなことを告げたの。ごめんなさい。血が繋がっていないのに、わたしを捨てた人なんかより、ずっと母親だった。気が付けばわたしは一人じゃなかった。わたしは恵まれていたよ。リンゴに恵まれ、しゅうのお父さん、お母さん、ミルコさん、育代さん、みんなに心配されて、幸せ者です。でも、どんな時も、わたしにはしゅうがいたから、頑張ろうと思うことが出来たんだよ。今、ここで、これを書きながら、もう一回、思うよ。しゅうとリンゴの元に帰らなきゃって・・・。
それで、一つ、相談があります。お医者さんからもう少ししたら退院の許可が出そうなんだけれど、少しのあいだ、独りぼっちになってしまったミルコさんのところで寄り添い、静養したいと思っているの。育代さんの骨はまだ、あの家にあるのよ。だから、そこで手を合わせたいの。ごめんなさい。いろいろと整理をしないとならないこともあるし、あと、マスコミとか、ニシキさんのところの若い連中とか、注意し続けなきゃいけない問題もいくつかあるので、全部を見極めて、安全になったところで、しゅうとリンゴの元に戻ろうと思っているのだけれど、それでいいかな。ミルコさんも相当、心が弱っているから、今は、一緒に力を合わせて乗り切りたい。わたし、帰る日は決めているから、その日に帰るね。もう一度、母親として出直すために・・・。それまでに、すべてを整理します。ミルコさんが退院の手続きをしてくれることになっているから、しゅうとリンゴはそこで待っていてね。ここはいろいろとまだ物騒だから、お願いします。アカリ」

© hitonari tsuji
「小さな命」は今日も元気だった。日々、健気にも着実に成長を遂げている。俺は仕事が終わると家に飛んで帰った。そして、俺に向かってまっすぐ突進してくるリンゴを玄関で受け止める。「パパ―」と大きな声で元気よく叫ぶ息子を抱き上げ、高い高い、をしてやる。最後に空中に放り投げ、降りてくるリンゴを再びキャッチする時、リンゴは大きな声を張り上げて息を吹き返したかのように笑いだす。それから俺は食堂の壁に貼り付けられてある漁業組合から貰ったカレンダーを見つめる。大きな〇が付けられている日を指さす。リンゴにはその〇の意味が分からない。その日が何の日か分からない。つまらなそうな顔で俺の息子はその〇をじっと見つめている。リンゴ、この日は、お前の2歳の誕生日なんだよ。
「小さな命」はそして、今日も元気だった。毎日、俺はリンゴを肩車して、浜辺へと出かける。そして、リンゴは、出来ては消える泡を蹴とばしながら、今日も波打ち際をよちよちと歩き回っている。もうすぐ2歳になる。もうあと数日でこの子は2歳になる。まだ、大丈夫、俺たちはきっと間に合う。この子が家族を繋ぐと、俺は確信している。アカリは間違いなく、その日に帰って来る。俺たちはここで幸せと合流するのだ。そして、もしも神様がいるのならば、俺たちの絆を再び繋いでくれるはずだ。「パパ―」と言いながら、リンゴが俺の腕の中へと飛び込んで来る。俺は受け止め、リンゴのわきの下に手を添えて、リンゴを持ちあげ回転させる。世界も回転する。太陽の光、海原の輝く煌めき、広大な青空、ありとあらゆるものが回転をする。
「小さな命」は今日もよく眠った。俺はその寝顔をじっと見つめている。すやすやと眠る我が子のほっぺたにキスをする。ぷっくらと膨らんだ可愛い寝顔を見つめながら、俺は思わず微笑みを浮かべてしまう。優しい波の音が聞こえてくる。地球の寝息のようだ、と思う。するとリンゴの向こう側にアカリが現れる。もちろん、幻想のアカリだが、俺をじっとまっすぐに見つめている。俺たちは見つめ合う。時を超えて、試練を超えて、その瞳の中に俺は自分自身を見つける。もうすぐ、戻って来る。「アカリ」と俺は心の中で愛する人の名前を呼ぶ。「アカリ」何度も声に出す。アカリが、リンゴの向こう側から俺をじっと見つめている。口許に生きる息吹が宿っている。もうすぐ、帰って来る。
「小さな命」はついに2歳になった。そして、今日も絶好調だ。仕事が終わって、家に戻ると、食堂のテーブルの上に母、マチ子が作ったケーキが置いてあった。父、あきらと二人で驚きと喜びの唸り声を張り上げる。リンゴを抱きかかえ、4人で、ケーキを見下ろした。真ん中に、『リンゴ君、2さいのお誕生日おめでとう』と描かれた白い板チョコが飾られてあった。みんな笑顔でリンゴを見つめる。リンゴがケーキを指さした。そうだよ、お前はついに2歳になったんだ。

© hitonari tsuji
俺はあれから、ずっと、毎日、エアタグでアカリの位置を確かめてきた。そして、今日、青い丸に動きがあった。昼食が終わった頃に携帯を取り出し確認をすると、青い丸がついにあの街の中央駅からこちらへ向けて移動し始めていた。俺は、自分の予感が的中したことに大はしゃぎした。やった、と大声を張り上げたせいで、リンゴが不思議そうな顔をして俺を見上げている。俺はリンゴを抱きかかえ、帰って来るぞ、と教えてやった。キョトンとした顔でリンゴが俺の唇を掴んだ。「リンゴ、ママが帰って来るんだよ」ともう一度告げると、リンゴがママという言葉に反応した。「ママ?」と告げ、首を傾げた。「そうだよ、ママだ。ついにママが帰って来る」俺はリンゴに「探す」機能の画面を見せてやった。「ママ」が帰って来るぞ。青い丸はこの漁港を目指して移動している。もう、間違いはない。アカリは電車に乗っている。エアタグがそのことを俺に伝える。ずっと、俺たちを繋ぎとめてきた、この宇宙からの視線・・・。そして、今日、俺たちはきっと再会する。
俺は両親にアカリが帰って来ることを伝えた。母、マチ子が「じゃあ、バースデーケーキはその時にみんなで食べましょう」と言った。俺はいつでも飛び出せるよう準備を開始した。青い丸はやがて、漁港駅の辺りで速度を落とした。アカリが駅に着いたことを知らせた。

© hitonari tsuji
「じゃあ、行って来る」
俺は両親にそう言い残して、リンゴを抱えて、裏から浜辺へと飛び出した。リンゴを肩車し、港の方へと歩き始めた。そこはかつて、アカリと二人でよく歩いた砂の道・・・。漁港まで20分程度でたどり着くことが出来る砂の一本道であった。携帯を取り出し、青い丸を確かめた。宇宙を経由して、そのシグナルが俺の携帯へと届けられる。アカリがこっちへ向かってまっすぐに歩いて来るのが確認出来た。あいつも俺たちの動きをエアタグで確認しているはずだった。繋ぎ留められている・・・。
「リンゴ、ママだよ。ほら、あっち、あっちだ。あの浜辺の先から、ママが戻って来るんだよ」
リンゴは俺が指さす海岸線の先へと目を移動させた。太陽が水平線の向こう側に沈もうとしている。穏やかな夕刻であった。俺はリンゴを抱えて歩き続けた。宇宙から見たら、三人はほぼ同じ位置にいることになる。同じ現在位置にある点に過ぎない。俺は目を凝らした。霞む視界の遥か先からこちらへ向かってまっすぐに歩いて来る人影を確認することが出来た。俺は立ち止まり、力強く、指さした。
「リンゴ、ママだよ。ほら、見てごらん、あっち」
近づくにつれ、はっきりとしてきた。驚くべきことに、アカリは笑っていた。あー、とリンゴが大きな声を張り上げた。ママー、と騒ぎ出した。ママ! アカリが少し小走りになって、こっちへ駆け寄って来る。リンゴが前傾になり手を伸ばす。
「ママー」
リンゴが落ちそうになる。俺は力を込めて落下しそうなリンゴを支えた。まもなく、飛び移ろうとしているリンゴをアカリの手がすんでのところで受け止めた。俺たちは幸せに再合流することになった。俺はリンゴを受け止めたアカリをしっかりと抱きしめた。笑っていたが、涙が溢れ出てきた。アカリの目も赤かった。俺たちは見つめ合い、今のこの瞬間を慈しんだ。俺は重なり合う家族を、離さぬよう、しっかりと二人を抱きしめるのだった。
了。
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【連載を終えて。作者からのメッセージ】
はじめて、デザインストーリーズ紙上にて、長編小説の連載をやり遂げることが出来ました。第一部第一回を配信してから、まるまる4か月ほどの時間が流れました。一時中断はありましたが、ほぼ連日の連載をやり遂げることが出来たのは、コメントや励ましをくださった読者の皆さんのおかげです。たくさんの方々に読まれ、一応完結出来、ほっとしています。この4か月は頭の中につねに「しゅう」と「アカリ」がいました。連載が終わってしまうのは寂しいです。そういう読者の声も届いています。本当にありがとうございました。小説の執筆には早朝から愛犬の散歩までの数時間をあてがっていました。午後は絵を描く二重生活でした。しゅうとアカリをなんとか幸せにさせないとならないという決意が日に日に強くなっていましたが、向こう見ずな連載の決着は予想不可能で、作者が一番ドキドキしていたかもしれません。最終回をこうやってかき上げることが出来て、実は、今、ほっとしているところです。出版化したいという出版社が現れたので、ここから大幅に加筆訂正を行い、もっとしゅうとアカリを生き生きと描き直そうと思っています。うまくいけば、来秋には出版できる予定です。単行本化をぜひ、お待ちください。二人をさらに愛しい存在に磨き上げ、昇華させたいと思っています。感謝を込めて。作家、辻仁成」

© hitonari tsuji
辻仁成展覧会情報
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2026年の1月、パリの日動画廊で開催されるグループ展に参加します。
1月15日から3月7日まで。結局、11作品の展示となりました。フランス人巨匠も参加するグループ展だそうです。
GALERIE NICHIDO paris
61, Faubourg Saint-Honoré
75008 Paris
Open hours: Tuesday to Saturday
from 10:30 to 13:00 – 14:00 to 19:00
Tél. : 01 42 66 62 86
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それから、8月前半に一週間程度、東京で個展を開催いたいます。
今回のタイトルは「鏡花水月」です。(予定)
タイトルは突然かわることがございますので、ご注意ください。
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そして、11月初旬から3週間程度、リヨン市で個展を開催予定しています。詳細はどちらも、決まり次第、お知らせいたしますね。
お愉しみに!

posted by 辻 仁成
辻 仁成
▷記事一覧Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。



