JINSEI STORIES

滞仏日記「異国で花見。ロックダウン花見真っ盛りのパリの市民公園で」 Posted on 2021/03/28 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、朝、ドアをノックする者あり。
息子に決まっているので、なんや~、と言ったら、出かけるんだけど外出証明書くれないかなぁ、と言った。やれやれ。
「どこ行くの?」
「セーヌ河畔公園」
「警察出ているよ」
「分かってる。だから証明書出して。ぼくまだ未成年だから」
実は、もう証明書は必要ない。でも、彼はまじめなのだ。
「君が感染し、無症状でパパにうつしたら、パパは年だし死ぬかもしれない。でも、君には外の空気が必要なのはわかってる。だから、一つお願いだ。仲間たちと遊ぶ時も、ソーシャルディスタンス、手の消毒、6人以上の集会の禁止、守れるね?」
うん、と息子。証明書を作成し、渡した。ぼくの電話番号も書いておいた。
土曜日、また独りぼっちだ。
すっかり目が覚めてしまった。大きな仕事がひと段落したので、ぼくも外出をしよう、と思った。
そうだ、花見に行こう。一人で? イエス。
ロックダウンなのだから、一人で花見をするのは、当然だった。
ぼくは、おにぎりをカバンに入れて、家を出た。
えへへ。 

滞仏日記「異国で花見。ロックダウン花見真っ盛りのパリの市民公園で」



パリのど真ん中に桜の木が数本植わっている秘密の場所がある。
結構、分かりにくい場所だが、集合住宅の広大な中庭で、芝生もあり、近くの人しか利用してないので、ぼんやりするには最適な場所でもある。
秘密の入り口があって、住人じゃないけど、忍び込める。
ところが行ってみると結構人がいた。
快晴だし、土曜日だし、ロックダウンだけど外にいることを推奨されているので、みんな公園に集まっている。
商店もカフェも閉まっているから、当然であろう。
桜、もう散りかけており、葉桜だったけど、きれいだった。
日本のことを想いながら、桜の木の下にマットを敷いて座った。

滞仏日記「異国で花見。ロックダウン花見真っ盛りのパリの市民公園で」



土曜日だから、子供たちが多い。
多くの家族が、桜の木の下で、禁止されている(?)ピクニックを楽しんでいる。
これは明らかに違反なのだけど、文句を言う人はいない。
子供たちは周辺を走り回っている。
いいなぁ。和んだ。
彼らに花見という概念があるのかどうかわからないけど、彼らは見事に葉桜の下の一等地を独占していた。

滞仏日記「異国で花見。ロックダウン花見真っ盛りのパリの市民公園で」

地球カレッジ

滞仏日記「異国で花見。ロックダウン花見真っ盛りのパリの市民公園で」



ぼくは少し離れた木にもたれ掛かって、幸福そうな家族を見つめている。
ぼくがシングルファザーになる前、辻家はよく仲間たちと花見をやった。
懐かしい思い出だ。今は一人で花見をしている。
なんで、ぼくは今、ここで、独りぼっちなのだろう、と思った。
とくに寂しいわけじゃないけど、人生というのはまさに予測がつかない。
パリに来るつもりなんか1%もなかったのに、気が付けばもうすぐ20年。

滞仏日記「異国で花見。ロックダウン花見真っ盛りのパリの市民公園で」



東京の桜はどこか人間の死とか命を想像させる。
桜の木の下に人の命が眠っているのよ、と昔、祖母に教えられた。
あの桜はただの木ではない、と祖母が言った。
「ひとなり、日本人にとって桜は先祖じゃ」
と祖母が言うので、ちょっと怖いなぁ、と幼いぼくは思った。
でも、今はそれがよくわかる。
皇居周辺に佇む桜には人格がある。
だからか、ぼくは、うかつに近づくことが出来ない。
東京で暮らした20年の間、花見をしている人を遠くから見て、ぼくは近づかなかった。
ぼくにとって桜はずっと手を合わせる存在だった。
一つ一つの桜に命が宿っているような気がしてならない。
震災の後だけど、福島に行った時に見た巨大な桜に圧倒されたことがあった。その桜は桜というよりも仙人のようだった。
見上げてのんきにお酒を飲める相手じゃなく、ぼくにとっては拝む対象であった。
しかし、なぜか、花見をしている人たちのぐでんぐでんの風景も嫌いじゃない。
下はへべれけなのに、上を見上げると凛とした世界が広がっている。
それこそ、日本の花見なのである。
天が人間を包み込んでいる。
怖いけど、美しい。
近づきがたいけど拝んでしまうものが、ぼくが思う日本の桜である。

滞仏日記「異国で花見。ロックダウン花見真っ盛りのパリの市民公園で」



ところで、風物というのは、眺めとして目に入るもの、であり、その季節やその土地に特有のもののことだから、日本の桜は風物詩だと思うが、逆に、フランスの桜は、ぼくにとって風物でありながらも、そこを通して、日本を想う入り口だったりする。
自分の記憶を辿る装置であり、そこに接続するイメージの導入部でもある。
ぼくがフランスで桜を見る時、ぼくは日本なるものを想っている。
望郷の念というより、自分が生きた記憶…。
ぼくは東京で生まれ、その後、福岡で小学校を、北海道で中学と高校を出るのだけど、その期間を通してぼくに今も色あせない風物を届けてくれるのが桜なのである。
ぼくはフランスの桜を見つめながら、1万キロ離れた日本の人々の幸せを祈っている。
母が長生きしますように、と思ってる。
漠然とだけど、世界が幸せでありますように、と桜に手を合わせることがよくある。
もうすぐ日本も花見の季節だろう。そこに先祖たちがいる。
コロナ禍の今年は少し離れた場所から、ディスタンスを保っと、どうぞ、静かに、家族の幸せを過ごしましょう。
一人花見も決して悪いものではないのである。

滞仏日記「異国で花見。ロックダウン花見真っ盛りのパリの市民公園で」



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