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滞仏日記「心の置き場所がない小さな子供を二日間、預かることになった」 Posted on 2021/07/31 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、昨日、息子がやって来て、あれは問題だよ、と言った。
なんのことかと思ったら、上の階の親子の怒鳴りあい、正確には母と娘の口喧嘩なのだけど、それはもうぼくらがここに引っ越してきてからずっと続いている。
酷い時はモノを倒す音とか何かが割れる音もするのだけど、確かに、今日はひどい。
もうずっと、娘さんが絶叫し続けていて、母親もそれに負けないくらい大きな声で怒鳴っている。
実は何度か、心配なので、言いに行ったことがあるのだけど、ご主人が出てきて、下のお子さんは心がちょっと難かしい子で、そのことを医学的に説明されたのだけど、ぼくの仏語力ではわからなかった。
ただ、いわゆる家庭内暴力とかそういうものじゃないのは事実で、別の日には家族四人で仲良く外出をしている。
でも、息子は、それにしても理解できない、と訴えるのだ。
息子の部屋の上がちょうど娘さんたちの部屋だから、なおさら声が筒抜けなのである。
もう少し、様子を見ようと話しをしていたら、二コラ(近所の親しくしている少年)のお母さんから電話があり、二日間だけ預かってくれ、と懇願された。
またか、と思ったけど、これは仕方がない・・・。



「マノン(二コラのお姉ちゃん)は同級生のところに来週まで泊まっています。で、元夫はご存じのように新しい家族がいるので。で、実は私の母が体調を壊していて入院しているんです。二コラは日曜日の昼に元夫にひき下りに行かせますので、それまでお願いできないでしょうか?」
いつものことなので、文句を言うこともできないし、ぼくは何も用事がないし、息子もいるので、二コラ1人なら何とかなるかな、と思い、引き受けることにした。
「ただ、デルタ株が流行っているので、PCR検査だけは受けてきてもらえますか?」
「受けさせ、陰性証明書を貰っています。リュックにいれておきます。すいません」
ならば、断ることはできない。
親が離婚をしてお父さんには新しい家族があり、お母さんだって仕事もあるし、次の人生を考えないとならないだろうから、そうなると、ぼくのような無害な人間が子供の面倒を見るのが一番だろう、と思った。
二日間だけだし、予定はないし、とくに急ぎの仕事もないし、・・・。
息子に言ったら、いいよ、といつものような感じでOKをくれた。パパは自分が鬱っぽいのに、本当に面倒くさいこと引き受けるよね、と一言嫌味を言われた。
「っていうか、むしろ、小さい子とか犬とかの相手をしている方が心が落ち着くこともあるんだよ」

滞仏日記「心の置き場所がない小さな子供を二日間、預かることになった」



それは嘘じゃない。
ところで、ぼくは犬を飼うことに決めた。室内犬を探している。
見かけはどうでもいいけど、話が出来る子がいいです、と知り合いのペット関係の人に頼んだら、そんな犬はいません、と言われてしまった。
ここでは買わないことにしよう、と思った。犬は絶対話せると思う。
昼前に二コラがやってきたので、昼食は、息子も二コラも好物のラーメンを作ることにした。
たまたま、昨夜の焼き鳥の骨があったので(ぼくは捨てない。骨はすべてダシの素)、それでスープ・ストックを作っておいたのだ。
麺は日本の乾麺があり、夜に三枚肉で焼き豚を準備していたので、それをやめて、チャーシューみたいにして添えることを思い立った。
大至急、煮卵を作り、ネギを切った。
なんだろう、心の調子がよくない時というのは、自分をある程度忙しくする方がいい。
やらなければならないことがあると、ダラダラしないで済む。二日間は、昔を思い出して、子育てのプロの復活である。

滞仏日記「心の置き場所がない小さな子供を二日間、預かることになった」



お母さんに連れられて二コラ君がやってきた。
お母さんはその足でモンパルナス駅へと向かった。ぼくは笑顔で、やあ、と二コラに言った。・・・あれ、なんか元気がない。
「どうしたの?」
「なんでもない」
そう言い残すと、リュックを入口に置き、いつもの窓辺のソファのところへ行って、しゃがみこんだ。携帯を取り出し、ゲームをはじめた。
いろいろとあるのだろう。やれやれ、みんな心が疲れ切っている。

滞仏日記「心の置き場所がない小さな子供を二日間、預かることになった」



息子とぼくと二コラの三人で食堂テーブルを囲んでラーメンをすすった。ぼくはちょっと胃が疲れ気味だったので、玄米ご飯とチャーシューとビールにした。えへへ。
「二コラ君、実はね、犬を飼うことにしたんだ」
え? という顔をした。
「ここに?」
「うん、パパはなんか寂しそうだからね」と息子。かっちーん。
「マジ? いいなぁ。うちは家族がバラバラだから犬を飼うことは無理なんだ」
いきなり、そんなことを言い出すのでみんな暗くなった。
「二コラはどういう犬がいい? まだ決めてないから、一緒に考えて。大きな犬は無理だよ。ここで飼えるサイズの犬だ」
と言ったのは息子だった。
この子は自分の小さな頃と二コラが重なる瞬間があるのだろう。普段は「うざい」とか言ってるけど、気が付くと、結構、面倒を見ている。
「ぼくはシバイヌがいい」
「柴犬?」と息子。
「なんで?」とぼく。
いきなり、日本の犬の名前が出てきて、びっくりした。しかも、しばいぬ、とちゃんと日本語で言ったのだ。



「あ、分かった」
息子が笑顔になった。
「スクイジーの動画観たな? その影響でしょ?」
二コラが笑った。
息子曰く、スクイジーはフォロワーが1600万人もいるフランスの有名人気ユーチューバーなのである。
3年ほど前に、スクイジーは柴犬を探しに日本まで旅をし、その動画を配信した。
その影響で、柴犬がいま、フランスで流行っているのだという。
確かに、ぼくも近所で、あ、田舎でも、よく柴犬を見かける。
しかし、柴犬はちょっと大き過ぎる。ぼくが探しているのは室内犬なのだ。二コラを喜ばせてやりたいけど、面倒をみるのはぼくなので、出来るだけ賢くて、楽な子がありがたい。苦しい時にはぼくに寄り添ってくれて、あどけない顔で慰めてくれて、抱きしめたら喜んでくれるような、めっちゃ可愛い犬がいい。そのようなことを話すと、
「じゃあ、ポメラニアン」
と言い出した。
息子がくすっと笑った。
「それ、パパにあってる」
「え? どんな犬なの? 写真ある?」
2人が同時に携帯を弄って、写真を探してくれた。
「ええええ? この子かぁ。なんか、やばいなぁ」
「ムッシュ、散歩一緒に行きたいな」
「え、ああ、いいよ」
息子が笑いだした。
「なんで? 笑うの?」
「だって、パパがポメラニアンを引っ張ってこの辺歩いているところ想像したら、なんだか、おかしいからさ」

ぼくらは、笑いあった。

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