JINSEI STORIES

滞仏日記「自殺したいとシモンが言うので、ちょっと待てよ、と説得した」 Posted on 2021/08/27 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、9月にライブ・イベントをパリ市内でやる予定で、そこで販売する書籍(拙著、白仏)を出版社さんに頼んでいたら「出来たので取りに来てください」と連絡があった。
でも、来るなら、車でこないと運べないわよ、と釘を刺された。
担当編集者、MBさんは、80代、ぼくの母親と同年代だ。
前回、一緒に食事をしたとき、「私は長生きをしたくない。一人だし、寝た切りになったら、誰にも迷惑をかけたくないから、スイスに渡り、お医者さんに死の手助けをしてもらうつもりだよ。もう登録してあるんだ」と悲しいことを言った。
スイスではそれが法律で認められているのだ。
そのことがずっと気になっていた。彼女はぼくのフランスのお母さんのような存在だから、長生きをしてもらいたい。
ところが、ちょうど着替え終わったところで、全自動洗濯機がピーピー言い出した。
見たことのないマークが点滅しているので、電気屋に電話をかけたら、若い人が出て「それは謎」と言い出した。
「もしかしたら、配管に問題があるかもしれないけど、ちょっとまず、水を抜いて貰えますか」
と言い出した。配管に問題? それが事実なら、大問題である。
それで、MBさんに「ちょっと家で問題が起き、午後に行きます」とメールを入れておいた。

滞仏日記「自殺したいとシモンが言うので、ちょっと待てよ、と説得した」



洗濯行程の途中で洗濯機がとまったので、洗濯機の中の水をまず抜かないとならないのだけど、これがもの凄い量で、抜いても抜いても出てきて、こぼれて、キッチンが水浸しになった。(NHKの番組で紹介した通り、ぼくんちは洗濯機がキッチンにある。笑)
せっかく、綺麗な服に着替えたのに、汗だくになり、着替えないとならなくなった。水抜きが、何とか終わると、電気屋の若いお兄さんが、
「じゃあ、フィルターを回して、中に何か詰まってないか、チェックしてみてください」
と言いだした。
言われた通り、二つフィルターがあったので、回してあけると、二つの目の方から、なんとマスクが出てきた。
「出てきましたぁ、マスク!」
「マスク!?」
その後、彼の指示に従い、掃除用のお酢をいれ90度の熱湯で再度回したところ、ふー、元通りに直った。
なぜ、フィルターにマスクが詰まっていたのかは「謎」で、電気屋の人も「聞いたことがない。どこにそんな隙間があるの」と苦笑していた。
ぼくは息子にマーボー豆腐を作って与えてから、午後、出版社へと向かった。すると、出版社の受付に大量の拙著「白仏」が積み上げられていたのだ。
「これ?」
「そうですよ。300冊」
「わお。そんなに頼みました?」
「頼みました」
だから、車で来い、ということだったのだ。
「10冊はおまけです。310冊」
「わお」
受付の人が手伝ってくれ、うちの小型車に積んだ。なんとか載った。荷台と後部座席までいっぱいになった。どうやって、エレベーターもないうちの4階までこれをあげる?
「MBさんは?」
「午前中はいたんだけど、あなたが急用になったから、帰りましたよ」
「残念。彼女、元気?」
「もう、高齢だからね、たまにしか、顔を出さないわよ」
「来月、日本文化会館で日本祭りを企画しているんですけど、よければ、お二人で来ませんか? 衛生パスポートがあれば入れます。コロナ対策もばっちり」
「あ、嬉しい。日本大好きだから、MBにも聞いてみますね」

滞仏日記「自殺したいとシモンが言うので、ちょっと待てよ、と説得した」



車を出す前に、息子に「アルバイトしない?」とSMSを送った。「荷物を運びあげるだけで、10ユーロ。ちょろいバイト」
「いいよ。着いたら、連絡して」
家に戻ると、近所の美容師のムッシュ・シモンが壁に背を凭れ、足元を見つめていた。
「やあ、シモン。元気?」
すると、いいや、と返事が戻ってきた。
息子が下りてきた。ぼくが息子に車の鍵を渡し、「中の本を全部、あげて」と言った。オッケーと息子。「すぐ行くから」とぼく。
「シモン。どうしたの? くらい顔してるけど」
「母さんが死んだ」
この人はこの界隈でとっても有名な母親思いの美容師だ。44才、独身。車椅子に乗ったお母さんといつも一緒。まさに、ぼくの弟みたいな感じで、母親と二人暮らしだったのだ。
お母さんも美容師だった。お父さんとお兄さんが10年前に相次いで他界し、お母さんは末期がんで79才でこの世を去った、という。
「生きる希望がない。ぼくは一人ぼっちだ」
声がものすごく小さい。すらっと背が高く、いつも明るく、通りですれ違っても、ムッシュ、いい天気だね、良い一日を、と明るい声で言ってくれる、笑顔のとっても素敵な紳士なのだ。
車椅子のお母さんを本当に大切にしていて、どこに行くのも一緒だった。まるで映画のような、この界隈では有名な、心温まる存在なのだった。
そのお母さんがいなくなったのだ。彼はいま、どん底にいる。
「自殺したい。もう、生きている意味がない」



「ちょっと待てよ。そんなこと、天国のお母さんが聞いたら、悲しむぞ」
「でも、ムッシュ。ぼくは一人で、家族もいない。家に帰っても誰もいない。父さんも、母さんも、仲良しだった兄さんも、みんないないんだ」
「誰か、愛する人を探せばいい。結婚して家族をつくれよ」
「でも、気が付いたら44才で、ずっと母さんの世話をしてきたから、もう、年齢的にも無理だし、そんな力、残ってない」
「愛があればなんとかなる」
「なんとかなる? 何とかする方法もわからない。あの店は母さんの夢だった。彼女も美容師だったから、二人で一緒に店をあけようと約束しあった。壁紙は母さんが決めたんだ。店の名前も、あの店は母さんの夢そのものだった。やっと、開店にこぎつけたのに」
店はコロナで経営が悪化した前のオーナーが、手放した。二度目のロックダウン中に、彼がここの新しいオーナーになったのだ。
息子が、ぼくの横に立っている。
「どうした?」
「これ?全部、上に一人であげるの?」
「あ、パパがやるから、階段の下まで運んどいてくれたらいいよ」
ぼくは目元を抑えて泣き出したシモンの腕をさすった。事情を察した息子がそこを離れた。シモンは息子の髪の毛もカットしている。

滞仏日記「自殺したいとシモンが言うので、ちょっと待てよ、と説得した」



「自殺なんか考えちゃだめだ」
「でも、生きてる意味がわからない」
「時間が必ず、解決する。ご飯は食べてるのか?」
「今日はまだ何も食べてない。昨日は、チップスを少し食べた」
「うちは息子と二人だから、よければ、来いよ。美味しいもの作るよ。こう見えてもぼくは料理が得意なんだ。寂しいなら、うちに来いよ。息子も君に世話になっているし、彼は髪型気に入ってる。君が死んだら、うちの息子の髪の毛は誰がカットするんだ。寂しいこと言うな。この町の連中もみんな困る。同じ通りで生きるぼくらは励ましあっていきないとならない」
人を励ますのには、ものすごい熱量がいる。
家の前で30分ほど、彼を説得し続け、近いうちに我が家で食事会することで、話が付いた。
つまり、今はなんでもいいから希望や約束が必要なのだ。
電話番号を交換し、死にたくなったら、電話をしてよ、と残した。
「ありがとう」
シモンは少し、微笑んだ。
ぼくはシモンの腕をもう一度掴んで、ぎゅっと握りしめてやった。
「お母さんとはじめた店だ。そこに集うお客さんたちが君の家族だよ。この町のみんな、君のお母さんと君の姿をずっと見ていた。君の優しさがこの殺伐とした世界には必要だから、だから、元気を出せ」

シモンと別れて、建物の中に入ると、本がなかった。全部、4階の家の中まで運ばれていた。300冊、いや、310冊、全部、息子が一人で運んだのだ。
ぼくはその本を見下ろし、泣いた。シモンの気持ちが痛いほどよくわかった。
息子に見つからないように、涙をぬぐって、本を書斎へと運びこむのだった。

滞仏日記「自殺したいとシモンが言うので、ちょっと待てよ、と説得した」



滞仏日記「自殺したいとシモンが言うので、ちょっと待てよ、と説得した」

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