JINSEI STORIES

滞仏日記「散歩中、不意に不動産屋から電話があった。雷鳴轟くパリの空の下」 Posted on 2022/06/29 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、日本行きが迫って来た。
三四郎を散歩に連れ出し、原っぱで走り回っていたら、SMSが入った。
「大家がアーティストには貸せないと言ってまして」という連絡を受けた不動産屋さんからであった。
正直、先のメッセージにはがっかりして、ぼくはほったらかしていたのであーる。
頭にきたし、他を探すつもりになっていたので、もうこちらから連絡していなかった。他にいい物件が出たのかもしれないと思いなおし、三四郎のリードを握りしめたまま、一応、電話をしてみたのである。
「しもしも」
これは冗談。
もしもし、と言ったら、ああ、あのままになっていたので、と律儀な不動産屋のおやじさんが言った。この人はとってもいい人なのである。
「いや、アーティストには貸せないと言われて、ショックだったから、こちらからあなたに電話する気になれず、すいませんでした」
と一応、謝った。
「いや、アーティストだからダメじゃなく、大家はサラリーマンのような安定的な仕事をしている人に貸したいと言ってるんです。で、私もあなたをがっかりさせたと心配になり、もう一度、あなたの申込書をチェックしてみたんですけど、あなた、大学の先生をやっているみたいですが、今もやっています?」
帝京大学の冲永総研という場所にぼくは席を置かせて頂いている。ゼミなどは任されてはいないけど、一応、雇用契約は結んでいますよ、と言った。
「あ、やっぱり。教授なんですね?」
「あ、ま、一応ですけど」
「その雇用契約書、失礼ですけど、送ってもらえますか?」
「ええ? いや、でも、大学の先生は大丈夫なんですか?」
「わかりませんが、諦める必要ありますか?」
「はー」
「いい物件だって、あなた言ってたじゃないですか?私もあそこは静かないい場所だと思います。それに大家はあなたのことを知らないし、前の住人と揉めているんですよ、その人、一年で出て行って、だから、大家は慎重になっていた。試してみませんか? すぐに相談をしてみます」
なんとなく、この人は信用できると思った。
大家さんと会うことはないので、ま、試してみるか、ということになった。

滞仏日記「散歩中、不意に不動産屋から電話があった。雷鳴轟くパリの空の下」



そこでぼくはしぶしぶというか、でも、心は再びうきうきして、しかし、うきうきし過ぎて、再び落選してしまうと衝撃が二倍になるので、いつもの、父ちゃんの名言、
「他人なんか信じてないもーん」
を連発しながら、雇用契約書を探したのだ。すると心にいくばくかのブレーキがかかるので、大事故にはならない。これが便利なおまじないなのであーる。
雇用契約書はすぐに見つかり、すぐにスキャンをし、送った。
10時から、「パリの空の下で、息子とぼくの3000日」の取材などをやったのだけど、その最中に、SMSが不動産屋から飛び込んできた。
「許可、出ました」

滞仏日記「散歩中、不意に不動産屋から電話があった。雷鳴轟くパリの空の下」



えええ、と思ったのだけど、声には出せないので、本の取材を続けた父ちゃん。
どうしよう、どうなっているの? と思いながらも、貸すというなら、借りない手はないよなァ、と思い直したのであーる。えへへ。
なぜなら、大家のことは知らないが、本当にいい物件なのだ。
閑静な住宅地に位置し、公園も近く、天井が高く、中庭があり、テラスがあり、屋根裏部屋も駐車場もついている。管理費も暖房代も家賃に含まれているのに、ちょっと狭いだけで、今住んでいるところより十万円くらい安いのだ。可能性があるなら、プライドは捨てて、もう一度話をするか・・・。
たぶん、二度と巡り合えない好物件であることは間違いない。
取材が終わり、不動産屋に電話をかけ直すと、
「帝京大学の雇用契約書で、通りました」
と凄いことを言うのである。これはこれで、ちょっと衝撃的だったが、でも、雇用契約書を結んでおいてよかった、と思った。
「でも、大学の先生がよくて、アーティストには貸せないというのも、驚きです」
「いや、ぼくも初めての経験なので、気にしないでください。大家は大昔の人なんです。よくわかってないんですよ。でも、よかったじゃないですか?」
呆気にとられた。こんなことならば、最初から大学の先生で通しておけばよかった。
ところがであーる。

滞仏日記「散歩中、不意に不動産屋から電話があった。雷鳴轟くパリの空の下」



大家の許可が不意に降りたのはいいのだが、ぼくの日本行きが迫っている。
ぼくのような自由業の人間は、銀行保証をやらないとならない。
つまり、2年間分の家賃が銀行にブロックされてしまう。それが銀行保証だ。もちろん、解約した時にこのお金は全額戻って来るのだけれど、この手続きが間に合わない。
ぼくの銀行の担当者さんに電話をしたら、銀行保証が確定するまでにひと月以上かかります、というお返事であった。
ひと月か、新たな問題が立ちはだかった。
今のアパルトマンを借りる時にも銀行保証をしているので、それを先に解除し、新しいところをそこに入れられれば、あらたにブロックされないで済むので助かる。
息子の大学生活にもお金がいるし、そんなに全部、銀行にブロックされていたら、生活がまわらない・・・。
フランスは夏休みに入るので、この調整が出来るかどうか、という状態なのである。え? 小さなアパルトマンでも買えばいいじゃないかって? 
円が力を取り戻さないと無理。今思えば、田舎のアパルトマンはあの時期に買えてラッキーであった。
コロナで誰も物件を買わない時に、しかもユーロがぐんと下がっている時に、買うことが出来たのだ。その後、物件の価格が高騰し、みんなパリを離れたので、もう田舎にまともな物件が残ってない上に円安・・・。神様のお恵みであった。
ぼくは家が仕事場だから、家賃の一部が経費として認められるので、借りた方が得なのである。ま、そういう事情はどうでもいいのだけど、銀行保証と仮契約を突破しないと新生活が遠のくという話である。
「とりあえず、明日、もう一度、話し合いをして整理しましょう」
と不動産屋が言った。この人には感謝であった。

つづく。

ということで、今日も読んでくれてありがとう。
毎日、特に何もしていないようだけど、日記にするといろいろなことが起こっているのがわかりますね。日本では大きな仕事が待ち受けているので、その準備にも追われているし、・・・。体調も心配だし、腹筋はぜんぜん割れないし・・・。ぷよぷよ。
さて、お知らせです。
新刊エッセイ集「パリの空の下で、息子とぼくの3000日」はいよいよ明後日、30日に全国書店で発売です。たのしみ~。

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