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滞仏日記「大変な一日だったけれど、エリザベス女王のことを思って、心を落ち着かせた」 Posted on 2022/09/09 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、たった今、エリザベス女王がご逝去された。ラジオがそれを伝えた。
テレビをつけると、すべてのチャンネルで、女王陛下のご逝去を伝えている。
隣国英国の女王陛下、フランスでもたいへんな影響力がある。
25歳から女王を続けられたのだ。このニュースが流れると、騒々しかった通りから音が消え、人々の姿が見えなくなり、静寂に包みこまれた。
多くの人が今、テレビやラジオの前に座り、英国からのこのニュースに耳を傾けている。
そして、チャールズ皇太子(73)が国王になられた。
驚くべきことに、家の前の道から人が消え、車もほとんど走ってない・・・。
それほど、エリザベス女王はフランス人にとっても親しみのある存在だったということであろう。
ぼくも三四郎と一緒に、珍しく、テレビに嚙り付いて、この歴史の終わりの瞬間を目撃している。
96歳だったエリザベス女王の歩みが繰り返し放送されている。一つの歴史がここに終わった。
パンデミック、戦争、目まぐるしく動き続けるこの世界から、長く灯った光が消えた。
時代の終わりを今、欧州の人々はじっと見つめている。不思議な瞬間である。

滞仏日記「大変な一日だったけれど、エリザベス女王のことを思って、心を落ち着かせた」



ぼくは慌ただしい一日だった。
銀行の繰り返すミスのせいで、今日は一日、不動産屋の担当さん、銀行の方々とのやり取りが続いた。結局、なんとかなりそうだけど、ぼくはこういう難題が降りかかった時こそ、怒りを鎮めて、自分を保とうとする癖がある。
本来ならば、ミスを繰り返す銀行に抗議してもいいところだけど、そういうエネルギーを発すれば、自分も嫌な思いをする。
怒るより、落ち着くことをぼくはいつも優先している。
銀行の支配人からも電話があったが、叱らず、きちんと仕事をしてくださいね、とだけ伝えた。
それから、三四郎を連れて、散歩に出た。
確かに、大変な事態である。銀行のミスで遅れに遅れた証書だが、ここにきて間違えが発覚したのだから、もうどうしようもない。
不動産屋には「残念ながら、ぼくにはもうどうすることも出来ません」とだけ伝えた。
こんな風に、今日は、朝から散々な日だった。
引っ越し屋から段ボールが届くはずだったが、待てど、来なかった。電話をすると、引っ越し屋のマダムが、「忘れていたわ」と呆気なく言い放った。
「いつ届けてくれますか?」
「来週中には」
「いやいや、引っ越しは再来週なんですけど、それは困ります。一人暮らしのぼくが20年間分の荷物を1人でまとめるのに、一週間では無理ですよね?」
ぼくは電話を切り、その会社の偉い人に、催促のメールを打った。でも、それでおしまい。
それから、携帯をオフにした。
もう、じたばたしてもしょうがない。朝、三四郎と向かった散歩の方位が悪かったのかもしれない。笑。でも、長い人生なのだ、いいこともあれば悪いこともあるさ。
ぼくはそういう時、出来るだけ、穏やかなものを探すことにしている。
美しい光とか優しい香りを探す。
落ち着く空間へ行くようにしている。
友だちのレストランに行った。ここには、静かな中庭がある。狭いけど、優しい風が流れる気のいい空間があった。落ち着くものを見つけよう。
ランチを食べ、三四郎と小一時間過ごした。
綺麗な光のおかげで、落ち着いてきた。

滞仏日記「大変な一日だったけれど、エリザベス女王のことを思って、心を落ち着かせた」

滞仏日記「大変な一日だったけれど、エリザベス女王のことを思って、心を落ち着かせた」



マーシャルの八百屋の軒先に、白い茄子があった。綺麗な茄子であった。
それをじっと見つめた。だんだん、落ち着いてきた。
三四郎と夕暮れの光の中を歩いた。
家に戻り、好きなジャズを流し、窓辺でミントティーを飲んだ。
エリザベス女王の逝去の知らせが聞こえてきたのはその直後のことであった。
エリザベス女王が歩いて来られた長い年月を思ってみた。
一人の人間が、生まれて死ぬまでの長い年月、そこに横たわった多くの出来事、彼女はその一つ一つを国王として見つめてきたのである。
大変な人生だったことであろう。
ぼくの身に起きたこれくらいの大変など、比べ物にもならない。
目を閉じ、ぼくはエリザベス女王に祈りを捧げた。
長いこと、本当に、お疲れさまでした。ゆっくりとおやすみください。
とんとんとん。

滞仏日記「大変な一日だったけれど、エリザベス女王のことを思って、心を落ち着かせた」



つづく。

今日も読んでくださり、ありがとうございました。
今日はこういう日でしたから、ずっと人の一生について、考えていました。生まれて、死ぬのが人間の定めですね。人間の数だけ、一生があるのだ、と思うと、怒りも鎮まります。生きているかぎり、明日があるのだから、この一瞬一瞬を大切に心穏やかに生き抜いていきたいと思いました。許せるものは、許していかないと身が持ちませんし、綺麗な世界だけを見つめていきましょう。生きる権利がぼくら全員にあります。
さて、今日は、父ちゃんから、お知らせがあります。
まずは、
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■「ボンジュール!辻仁成のパリごはん2022夏」(59分)、本放送の放送時間のお知らせです。2022/9/23 金曜日 22時〜22時59分。オンデマンドもあるようです。
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そして「夏ごはん」の放送に向けて「春ごはん」の再放送も決まりました。
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■「ボンジュール!辻仁成のパリごはん 2022 春」(59分)
 本放送:2022/6/17
【再放送日時】2022/9/17 (土)前11:00~11:59<BSP-4K同時>
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楽しみですね、果たしてこの夏の父ちゃんはどんなだったのでしょうね・・・。え? みんなもう日記で読んで知っている? あはは、そんなこと言わないで、再放送もすべてチェックくださいませ~。

さて、吉方位に見放された父ちゃんの小説教室、第二弾を、9月24日(土)に開催いたします。一度は小説を書いてみたいけれど、小説の敷居が高くて、なかなか書けないとお嘆きの皆さまに、わかりやすい、父ちゃんの小説講座です。愉しみながら、小説を書いちゃいましょう。
今回の課題のテーマは「食」「食べるもの」「食について」の小説です。「一杯の掛け蕎麦」のような食べることをモチーフにした掌編小説、もしくは長編の冒頭を、原稿用紙10枚以内で。締め切りは9月20日。書き始めてくださいませ。詳しくは、下の地球カレッジのバナーをクリックくださいませ。

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