JINSEI STORIES

退屈日記「人間は過去をどこまで持って生きるべきか、息子に問いかけた」 Posted on 2022/09/23 辻 仁成 作家 パリ

退屈日記「人間は過去をどこまで持って生きるべきか、息子に問いかけた」

某月某日、暗い地下へと降りる曲がりくねった階段。
幽霊が出そうな歴史的な地下空間の一角にぼくが借りるカーヴ(地下室)があり、この中のもののほとんどはぼくが3人で生活を送っていた当時のものたちで占められている。
離婚からもうすぐ十年なので、これ以上、過去を引きずって持っていくのも、よくない、と思っているし、どこかで処分をしないとならないのは事実だろう。
小さい家具とか、当時使っていて製品を処分するのは難しくなかった。
すでに長い年月このような場所に保管されていたので、黴がひどく、どれも今更の再利用は難しい。
処理に困っているのは段ボール箱、5箱ほどの「記憶」である。
この段ボール箱の上面に「20年開けない」とマジックで書かれてある。
これは息子が家族三人で過ごした時期、生まれてから小学生までの一定期間、母親がいた頃の思い出の品々、が中心となっている。
慌ただしい離婚だったので、残されたもの、放置され、どうしていいのかわからない「記憶」たちばかり、であった。
悩んだ父ちゃんが、勝手に捨てるのはよくないし、今は冷静になれないので、いずれ、成人をした息子が自分で判断をすればいい、とそのまま、5つの箱に分別して、保存することになった。
保存をした時の自分の気持ちはよく思い出せない。
でも、相当、めげていたように思う。
メディアの、なぜか、ぼくへの一方的な誹謗中傷がすさまじく、やるせなく、残された遺品のような記憶を箱に詰めるしかなかった、のだった。

退屈日記「人間は過去をどこまで持って生きるべきか、息子に問いかけた」



長い年月が過ぎ、息子は成人し、大学生になった。
息子は大学街の一角で一人暮らしをはじめ、ぼくは小さなアパルトマンに拠点を移す。
そこの地下室は今の十分の一程度の広さしかなく、これらを全部収容することが出来ない。息子のアパルトマンには地下室はない。
先日、大人になった彼に何気なく、この段ボール箱の存在について語った。
顔色を一つ変えず、じっと聞いていた息子だった。(立ち話だった。真剣に向かい合って聞くことでもないので、家に来たついでに、こういう箱があるけど、どうする? と耳打ちするような感じで・・・)
「置くところがない」
これが彼の回答であった。
アパルトマンが狭くて、置く場所がない、という風には聞こえなかった。
もっと違う意味でぼくには言葉たちが届いた。その場所がない、というように聞こえたのだ。どういうものか軽く説明をしたが、反応はなかった。
「パパに任せるの?」
小さく頷いた。
ぼくは今日、地下室で、マスクをして、その箱を開封した。
フォトケースの中で、笑う古い家族、・・・。ぼくには残酷な写真だったが、それを選別した。
段ボールひと箱程度にしないと新しいカーブには入らない。
まだ、十年しか経っていなかったが、このタイムマシーンは大方の使命を終えようとしていた。

退屈日記「人間は過去をどこまで持って生きるべきか、息子に問いかけた」



それでも、ぼくはこの想い出の救済を思い付いた。
新しい段ボールを作ればいいのだ、と・・・。
「さらに20年間あけない。閲覧注意。これは過去の家族に関するものだから、もし僕に何かがあっても、息子以外の人間が開封することをぼくは認めない。辻」
これはいったい誰に対する配慮であろう。
ぼくの未来に関しては何もよくわからない。ぼくがどういう人生の末期を辿るのか、今は全くわからない。
でも、ぼくも人間で、不意に、訪れる人生の終焉の時、この箱がぞんざいに扱われるのは望まない。
これはもう一度、息子が自分で考えて、その時の冷静な精神状態で、開封をしたらいいのだ、と思った。
なので、ぼくはこの「記憶」を未来に委ねることにしたのである。
幸福だったころの息子の優しい感性がその箱の中にぎゅうっぎゅうっと詰まっていた。
それらをぼくはきちんと選別し、紙の箱に詰めていくのだった。

つづく。

今日も読んでくれて、ありがとうございます。
さて、そんな父ちゃんからのお知らせですよ。まずは、「ボンジュール、パリごはん、夏編」が今日、23日、ついに、ついに、放送となります。(夏編、ぼくはオンタイムでは見ることが出来ないから、皆さんの感想をお待ちするしかない。お待ちしておりま~す)
■「ボンジュール!辻仁成のパリごはん2022夏」
 本放送:2022/9/23 金曜日 22時〜22時59分
番組ホームページもできましたのでお知らせします。
https://www.nhk.jp/p/ts/6XW8NZ748V/episode/te/ERJW2WJQ8B/
そして「2022春」「2022夏」はオンデマンドが1年間になりました。
より長くオンデマンドでは視聴いただけます。

小説教室が本放送の翌日、9月24日(土)に迫ってきました。熱血でいきます。一度は小説を書いてみたいけれど、小説の敷居が高く感じて、なかなか書けないとお嘆きの皆さまに、わかりやすい、父ちゃんの小説講座です。愉しみながら、小説を書いちゃいましょう。
詳しくは、下の地球カレッジのバナーをクリックくださいませ。

 

地球カレッジ

退屈日記「人間は過去をどこまで持って生きるべきか、息子に問いかけた」



自分流×帝京大学