JINSEI STORIES

ノルマンディ日記「人間は毎日、自己最高新記録を更新しているのだ」 Posted on 2023/02/06 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ぼくは今日もまた田舎のアパルトマンの屋根裏部屋で目が覚めた。
おお、すげー、と思った。
窓の向こう側から太陽の光が降り注いでいる。眩い。
「やった。また、新記録だ」
父ちゃんの最近の口癖である。
思えばこの地球で棲息するすべての人間は、毎日、自身の新記録を更新しているのである。
ぼくは今日、自己ベストを再び、自動的に、更新してしまった。
目が覚めて、意識が冴え冴えとしてきたので、自分が再び生き延びたことを知った。
「すげー、やったじゃん、ひとなり。また、新記録達成だよ。おめでとう」
「ありがとう」
こういう朝の一人芝居をやって、その日を盛り上げていくオヤジなのであった。
あはは。
でも、気分がいい。ものは考えようである。
毎日、目覚めるたびに新記録を達成しているのだから、素直に喜ぶべきなのだ。
よっしゃ~、熱血~。

ノルマンディ日記「人間は毎日、自己最高新記録を更新しているのだ」



今日は、友だちのステファンに会うため、エトルタまで車を飛ばした。
エトルタは自然の風雨にさらされて出来た奇妙な断崖が続く、とくに岩石のアーチが有名な観光地で、クロード・モネやギュスターブ・クールベらを魅了した。
ステファンは、ぼくがノルマンディに定住しようとしたきっかけを作った人物だ。
出会ったのは15,6年前のことだけれど、今は、70代後半だと思う。
ぼくの家から彼の家まで、車だと山道を通るので、二時間程度かかってしまう。
ノルマンディは本当に細長い地域圏なので、東のディエップから西のモンサンミッシェルまで行こうとすると4時間ほどかかってしまう。(ふふふ、父ちゃんは広大なノルマンディのとある浜辺の港村に棲息しているのだ)
「ちょっと話があるんだ。久しぶりに顔を見たい」
ステファンにはお世話になった。(中止になったオーチャードホールの練習をやったのが、彼の別荘の一室である。詳しくは過去日記にゆずる)
顔を合わせるなり、ステファンが面妖なことを言しだした。
「実はね。死のうと思っているだ」

ノルマンディ日記「人間は毎日、自己最高新記録を更新しているのだ」



ぼくらは、エトルタ海岸の近くにあるレストランで向かいった。(足元には、三四郎)
「どういうこと?」
「あのね、妻と死に別れてからずいぶんと経った。でも、楽しくないんだ。それに、ちょっと身体を悪くしている。あまり言いたくはないけれど、治らない病を患っている。それと向き合って生きていくだけのエネルギーが残念ながらもうない」
「・・・」
「そこでスイスの安楽死団体の会員に登録をした」
ぼくはびっくりした。
「もっとも、いつでも死ねるというわけじゃなく、順番を待たないとならないし、いくつかの条件をクリアしないとならない。そこまでに心変わりをする人も結構いるみたいで、実はぼくも登録はしたものの、さて、どうしたものか、と思って、今、君に話している」
ぼくは言葉を探したのだけれど、見つからなかった。
目の前に魚介類が並んだ。
ステファンはそれを楽しそうに食べている。死にたいと言っている癖に、この食欲はどうなんだ、と訊いてみた。
「それが、会員になったら、最後に会いたい人、最後に食べたいもの、などがいろいろと増えてね、なので、困っているんだよ」
とりあえず、ぼくは生牡蠣を一つ掴んで、口に入れることにした。

ノルマンディ日記「人間は毎日、自己最高新記録を更新しているのだ」



ぼくの知り合いの編集者、Mさんも、このような団体(スイスには5つほどの自殺ほう助団体がある)の会員になっている、・・・可能性がある。
お子さん(ぼくと同じ年齢)が知的障がい者で、「もし、自分が動けなくなったら、この子に私の面倒をみさせるわけにいかないから、安楽死を選ぶつもりだ」と語っていた。あれから、数年が経つが、まだ、彼女は働いている。でも、80代なのである。
ぼくの母親とほぼ同じ年齢なのだ。
自分の死を自分の意思で決めることが欧州では増えつつある。
ステファンのこの考え方を、他人のぼくが否定出来るわけもない。
経験豊かな編集者で、ぼくなんかよりも世の中のことを知っている。彼をとめることができるのは、彼しかいないだろう、と思った。
「ステファン」
ぼくは食後、こう切り出した。
「ぼくがノルマンディにアパルトマンを買おうと思ったのも、君がノルマンディにいたからなんだ。しょっちゅう会うわけじゃないけれど、しょっちゅう会うことも出来る。誰も君の意思をとめることはできないだろうが、もしも、悩むことがあったら、ぼくを呼びつけてくれないか。友だちとしてできることをさせてもらいたい」
ステファンは小さく頷いていた。
「実は、愛犬が死んでね」
「ルルが?」
「ああ、11歳まで生きた。順番だから仕方がないけど、妻が死んで、ルルもいなくなって、これは仕方がないことだけど、ぼくは十分、この世界を楽しむことが出来た。こうやって、君に会えてよかった」
「また、会いに来るよ。ここまで二時間で来ることが出来る。また、会おうよ。飛んでくる」
「ああ、そうしよう、ひとなり」

ノルマンディ日記「人間は毎日、自己最高新記録を更新しているのだ」



つづく。

2019年、ステファンの別荘で、オーチャードホールライブに向けて、頑張っていた頃の日記はこちらです。ステファンの奥さんのこと、少し記しています。

https://www.designstoriesinc.com/jinsei/dairy-259/

今日も読んでくれてありがとうございます。
ステファンと別れた後、しばらくエトルタの海をじっと見つめていました。今日を最後にしたくないので、近いうちに、またエトルタを訪ねたいと思います。

地球カレッジ

ノルマンディ日記「人間は毎日、自己最高新記録を更新しているのだ」

さて、父ちゃんの5月29日のオランピア劇場でのライブ、直接チケットを劇場で予約する場合はこちらから。FNAC(フナック)でも買えます。

https://www.olympiahall.com/evenements/tsuji/

フランス以外からお越しの、ちょっとチケットとるのが不安な皆さんは、ぜひ、ジャルパック・サイトをご利用ください。こちらです、

https://www.jalpak.fr/optionaltour/tsujiconcert/

そして、新作「辻仁成のパリごはん 2022年秋冬」(59分) 放送時間のお知らせです。
2023/2/17(金)後10:00~10:59【BSプレミアム・4K同時】
2023/2/21(火)後5:00~5:59【BS4K】※再放送
2023/2/21(火)後11:00~11:59【BSプレミアム】※再放送
さらに、
●「ボンジュール!辻仁成のパリごはん2022夏」の再放送が決まりました。
【NHK BSプレミアム】 2月12日(日)12:30〜13:29
(初回放送 2022年9月23日)
お知らせ多すぎますね・・・。メモしておいてねぇ。えへへ。



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