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滞仏日記「光りの子供たち、待ちわびた世界を走り回る」  Posted on 2020/05/12 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、約2か月間に及んだロックダウンが解除され、パリは風景が一変した。午後、晴れ間が広がると、どこからともなくお母さんに手を引かれた子供たちが出てきて、少し広い場所で走り回っていた。この光景に思わず感動をしてしまった。よくぞ、2か月、耐えたね、とぼくは遠くから拍手を送った。この2か月、子供たちを見かけることが少なかった。若い人たちはジョギングをしていたし、ご年配の方々は散歩をしていたけれど、小さな子たちはあまり見かけることがなかった。でも、ついにパリはロックダウンが解除されたので、とにかく、今日は大勢の子供たちが外を走り回っていた。お母さんは踊っていたし、子供たちはジャンプをしていた。よく耐えたね、よく頑張ったな、と思った。

滞仏日記「光りの子供たち、待ちわびた世界を走り回る」 

滞仏日記「光りの子供たち、待ちわびた世界を走り回る」 



散歩をしていると、不意に、携帯が鳴ったので見たら、近所に住む9歳児ニコラのお父さんの携帯からであった。1月末、ぼくが日本に仕事で行っていた時、息子が風邪をひいて、その面倒を見てくれたのがこの一家だった。電話に出ると、男の子の声で、ニコラだよ、と言った。
「どこ? おうち? 何してるの?」
と訊いたら、こっちだよ、こっち、ムッシュ・ドロール(おもろいおじさんという意味)ほら、こっち、とニコラが言った。え? どこ? ぼくは慌てて周辺を見回した。すると、通りの反対側の木立の下にニコラとニコラのお父さんがいた。ニコラはヘルメットをかぶっていた。スケボーの練習をしていたようだ。あ、大きくなっている。びっくりした。すらっと背が伸びている。
「ニコラーッ」
ぼくは手を振った。でも、駆け寄ることはしなかった。二人がマスクを付けていなかったからだ。まだ、解除になったばかりだし、もしものことがあるといけないので、ぼくは社会的距離を保った。
「みんな、元気―?」
「元気―。また遊びに行ってもいいですかぁー」
良かった、と思った。この家族も無事だった。
「もうちょっとしてぇ、学校が始まってぇ、ニコラの算数のテストの成績があがってぇ、嫌いなホウレンソウが食べられるようになってぇ、君がパパやママに叱られなくなってぇ、背がもうちょっと伸びたら、おいでー」
たぶん、前みたいに行き来は出来ないのだ。今日、息子にも、イヴァンをうちに呼びたいけど、いつからいい? と訊かれた。暫くは無理だよ、と言っておいた。暫くってどのくらい? ぼくらがもう少し、このコロナウイルスとうまくやっていけると思う時までだ。今はまだあいつらのことを完全に理解出来てないからね。息子は残念がっていたが、納得していた。うちの子は16歳だから大丈夫だけど、たぶん、コロナの原因だろうと言われている川崎病に似た幼い子たちだけがかかる奇病が見つかった。フランスでもネッカー児童病院などに赤い斑点が出ている子供が何人か入院している。アメリカでは児童二人が亡くなっている。このウイルスはまだまだ、ぼくらを怖がらせるに十分な未知の力を持ち続けている。気を付けないとならない。
「マノンにもよろしくねー」
「うん、ムッシュ・ドロールも。またご飯食べたいよー」
「今度、届けるねー」
「ツジさん、ありがとうございます」
最後はニコラのパパがぼくらの会話をまとめて、二人はスケボーで遠ざかっていった。

滞仏日記「光りの子供たち、待ちわびた世界を走り回る」 



上の階のジェロームとマリ―が二人のお嬢さんを連れて向こうから歩いてきた。マリーとお子さんが喘息を持っているので、この家族は高性能のマスクを付けている。彼らは丸2ヶ月、家から一歩も出なかった。ご主人は階段の上り下りを毎日続けていた。時々、ぼくらは階段の上と下で、会話をした。彼らは毎週、大量の食糧を買って、スーパーの人に運ばせていたが、ウイルスが死ぬまで食材の詰まった袋は家の中に入れなかった。そこまで用心をし続けてきた家族が今日、光りの中を歩いていたのだ。持病を持った人が家族にいると、人一倍気をつかわないとならない。よく頑張ったね、と思った。もちろん、これからも長い戦いが続くのだけど、生き抜くためには、一つ一つ階段を上っていくしかない。お嬢さんたちがぼくに手をふった。ぼくも小さくふり返した。
「毎日、この子たちがどたどた走り回るから、うるさいでしょ?」
マリーが言った。いいや、全然、とぼくは言った。実際はものすごくうるさいのだけど、この子たちが笑っていることがぼくは嬉しかった。この子たちの足音は同時にこの世界の子供たちの魂の鼓動であった。それが生きているということだった。天井がどたどたを鳴る時、その上に天使たちがいるのだ、とぼくは思うようにしていた。 

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自分流×帝京大学