JINSEI STORIES

滞仏日記「呪われた辻家」 Posted on 2020/05/13 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ここのところ書き物の仕事が立て込んでいて、毎晩4時に寝ているので昼食後、睡魔に襲われた。作家の仕事は行間を跨ぐ仕事なので、本当に体力がいる。今一番注力しているのは小説だ。もうすぐ完成するのでこっそり根を詰めている。本が売れない時代だけど、物書きなので読者がいる限りベストを尽くしたい。他にも、家事や子育てにコロナ君まで重なったので、ちょっと身体がきつくなり、息子に食事を与えたら疲れが押し寄せ、ちょっと昼寝するね、と言い残してベッドに潜り込んだ。ショートスリーパーだけど、さすがに爆睡だった。そしたら、少しして、不意に耳元の携帯が鳴った。
「パパ」
「だれ?」
「ぼく」
これは夢だろう、と思った。息子から電話って、だいだい、おかしい。家の中なのに。
「パパ、大変なことになった」
「なにが大変?」
「だって、天井が剥がれ落ちたんだ」

滞仏日記「呪われた辻家」



窓の向こうに光りが溢れていた。いい天気である。天井が剥がれ落ちるだと、面白い夢じゃないか、と思いながらぼくは半身を起こし、やれやれ、と左手で顔をぬぐった。右手が携帯を握りしめている。あれ、夢じゃないの?
「もしもし?」
「パパ、天井が剥がれ落ちたから、危ないので、部屋から出られないよ」
ぼくは起き上がり、寝室のドアを睨んだ。仕方なく、スリッパに足を突っ込み、廊下に出た。息子が子供部屋の中から玄関の上を指さしている。
「NOッーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
ぼくは驚き、その下まで走った。崩落しているわけではないが、天井面が剥がれて落下していた。水漏れで動かなくなった給湯器が直ったばかりなのに、なんてこった。水漏れのせいで天井に水が染みて、脆くなってしまっていたのである。

ぼくはまず写真をとり、応対の悪い管理会社のニコラさんに「こんなことになりましたよ」とメールを送りつけることになる。3か所の水漏れのせいで停電、天井が剥がれ落ち、給湯器の故障、キッチンの換気扇まで不具合が続出している。まもなくニコラから返事が戻って来た。
「あなたは呪われていますね」
な、なんだぁ、この返事―――――――――――――ィ。
なんてやつだ、と思ったが、確かに呪われている。パリで子供を育てなきゃならない運命で、シングルファザーで、コロナで、ロックダウンで、壁が剥がれ落ちているのだから、ここまで酷い人生はない。もしかするとこの後崩落が待っているかもしれない。
「パパ、でも、パパはまだ大丈夫だよ。よく考えてみて、もっと大変な思いをしている方々が世の中には大勢いる。こんなの大したことじゃない。これを日記に書いたらいいよ、笑えるように」
「は?」
「ぼくは思うんだけど、こういうことをシリアスに伝えるのじゃなくてね、ユーモラスに書いてみたらいいんだ。それがポップということだよ。とっても大事なことじゃない? みんなが、むしゃくしゃするこの時代に、天井が剥がれ落ちたってそのまま書いて何になるの?共感なんか得られないでしょ。それはポップじゃない。ポップとは共感なんだ。みんな一緒じゃんっていう共有なんだよ。なんでぼくが音楽をやっているかって、言うとね。みんなに心地よさを届けたいんだ。一緒に幸せになるために、でしょ? それが音楽の役割だから。物書きも一緒だよ。こういう時代だからこそ、ギスギスしたら負けちゃう。パパはあの天井の穴を笑いに変えなきゃ」
「はぁ?」
「いいじゃん、天井が落ちたことくらいで済んだ。僕はどこでも生きていけるよ。掃除機を持ってくるから、一緒に片づけよう。管理会社や大家を怒鳴っても、今は、しょうがない。ここを選んだのはパパだし、運命だし、一緒に片づけながら笑いに変えようよ。呪われた辻家って、タイトル、面白いじゃん。みんなマスクもないし、お金だってない。コロナが怖いし、家から出られないし、出たくないし。でも、この程度のことに人生を奪われたら損じゃない。だから笑いに変えるんだ。見てよ、あの天井、笑えるでしょ?」



ぼくは泣きそうだった。こいつがいてくれて、よかった。そう思ったら、そこに救いがあった。たしかにそうだ。みんな頑張っている。笑いに変えなきゃ、でも、どうやって? ぼくらは掃除機で剥がれ落ちた破片を吸い込んだ。それからニコラに返事を書いた。
「これはコメディだと思うよ。一緒に笑おうじゃないか。もしも、ぼくが寝ている間に天井が崩落してその下敷きになったら、あなたが後悔しないことだけを祈っているよ」

滞仏日記「呪われた辻家」

自分流×帝京大学