JINSEI STORIES

滞仏日記、2「眠れない夜に」 Posted on 2020/03/03 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、眠れなくて、なんども目が覚めてしまった。ぼくはショートスリーパーなのだ。思えばだいたい睡眠時間は3時間平均というところで、昨夜も夕食後眠くなって、ベッドでウトウトとしたら寝てしまい、なんと23時45分に目が覚めてしまった。たぶん、一時間半くらいしか寝ていない。だいたいそうなると、もう眠れない。

日仏の行き来も多いので、そもそも、時差が壊れている。昔は9時間くらい連続で眠ることが出来たのに、あの頃が懐かしい。仕方がないので、ちょっと仕事をすることに。書きかけの小説を、編み物でもするように、前日の最後のところから、ちょっとだけ筆を入れる。もう一年ほどこんな風に向き合って来た作品、でも、終わりが見えない。仕事と言えるのかどうかさえわからなくなってしまった。活字を見ていると眠くなる時もあるのでやってみたけれど、ダメだ、逆効果である。どんどん、目が覚めていく。やっぱり寝たい。夜は眠るためにあるのだから…。パソコンやスマホは睡眠を妨げるというので、消すことにした。

お酒を飲むとよく眠れるという人がいるけど、ぼくはその逆で、お酒を飲むと目が覚めてしまう。とくにウイスキーのロックは冷たくて強いから、寝たい時には厳禁。温かいお酒がいいのだけど、ならばちょっとお風呂に入ってからが効くので、まずは風呂に湯をはった。熱いお湯にするとこれまた目が覚めるので、ちょっとだけぬるめの湯にして、そこにアロマオイルを数的垂らした。ラベンダーの精油でもいいのだけど、お好みはティトリー。あのどこか森の神聖な香りが睡眠欲というものを引き出してくれる。数滴、垂らしてから、集めているアロマキャンドルを並べて火をつけた。何にも考えないで、揺れる炎を見つめる。頭を空っぽにする。もういいんだよ。寝ることを諦めていい、と自分に言い聞かせる。これがとっても大事。人間、諦めに救われることも多い。頑張ることをいったん諦めよう。もういいんだ。君は赤ん坊に戻ればいい。何も怖がることはない。寝てしまおう、と自分に言い聞かせる。

滞仏日記、2「眠れない夜に」



身体が温まったら、キッチンに行き、お湯を沸かして、グロッグを作る。これはフランスで覚えた、フランス人が風邪の時に呑むホットラムのことだけど、グラスにレモンを半分ほど絞り、そこにラムとお湯を注いだもの。これが温まるんだ。真っ暗なキッチンにアロマキャンドルを一つ持ってきて、グロッグを飲みながら、ぼうっとする。炎が揺れて、心も揺れる。窓の向こうで猫がないている。まるで音楽のようだ。そして、自分にこう言い聞かせる。
「もう、何も気にするな。何にも考えなくていい。ぼくはもう赤ん坊なんだ。嫌なこと、辛いこと、息子よごめん、君の将来のこととか、仕事も責任も全部一度、忘れてしまおう。いいんだよ、こんな夜もある」
グロッグを飲み干したら、蝋燭を吹き消してから、ベッドに戻り、布団に潜り込んだ。ああ、気持ちいい。なんて気持ちいいのだ。ぼくは還暦の赤ん坊なのだ。さあ、眠るぞ。

おやすみなさい。よく生きました。とんとんとん。