JINSEI STORIES

滞仏日記「僕はノルマンディーで美しい満月を見上げた」 Posted on 2019/03/22 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、息子を上階に住むA君に預けて、僕はノルマンディーへと旅立った。知り合いの編集者や作家たちがドーヴィルで毎年行われているノルマンディー編集者会議という名目の飲み会に参加するために。どうしても参加しなければならない仕事ではなかったけれど「美味しいカルバドスを飲ませてあげるよ」という編集者アランの誘いを断り切れなかった。生活や子育てに疲れていたし、気晴らしと休息がシングルファザーでもある僕には必要だった。でも、気になるのは息子のことで、A君もまだ若いし、ほとんどお互いをよく知らない二人が一晩同じ屋根の下で過ごせるのかが気になって、何度もメッセージを送ってしまった。(学校だから、もちろん、返事はない)

彼らの食事はカレーライスにした。白ご飯だとA君が食べにくいと思って、炊飯器にターメリック味のピラフを仕込み、夕飯の時間に出来上がるよう、タイマーをセットしてきた。ま、今更心配しても仕方がないので、僕は旅を満喫することになる。久しぶりのノルマンディだったので、パリから参加するアラン、シモン、エロイーズの四人で二台の車に分乗し、僕らは北上した。作家モーリス・ルブランの代表作、小説ルパンの「奇巌城」の舞台となったエトルタ、作曲家、エリック・サティを生んだオンフルール、作家マグリッド・デュラスが愛を育んだトルーヴィルなどを巡ってドーヴィルまで片道2時間半の文学的なドライブ旅行となった。詩人のエロイーズがカーンの出身ということでその辺に詳しく、ガイド兼ドライバーを兼ねてくれた。「私もシングルだから、あなたの気持ちはよくわかる。子供のことが気になって、なかなか自由にはなれない。でも、長い目でみたらいいよ。これも、神様があなたに与えてくれた嬉しい試練なんだから。いつか、成長した子供があなたに癒しと喜びを与えてくれるはずだから」と彼女は言った。嬉しい試練、という言葉に思い当たった。

これが思わず神秘的な旅行となった。アランはお子さんが病気になってそのことで大変な人生を生きてきた。エロイーズは僕とだいたい同じ頃に離婚を経験していて今は13歳の女の子と8歳男の子の二人を抱えたシングル、物書きのシモンはゲイなのでずっと独身、恋人も子供もいない。それぞれバラバラな人生を生きてきた4人が(だいたい世代は一緒かな)、それぞれの人生を振り返りながらの思索の旅となった。面白いのは、彼らは共通しており、決して写真を撮りたがらない。アランは携帯さえ持ってない。4人で写真を撮ろうと提案をしても、3人とも微笑んで拒否。インスタとかにあげられるのが嫌なのだそうで、普通は一人くらい「いいよ」と言ってくれそうだが、そこはさすがに変わり者が多いフランス人だ。思い出は記憶の中だけでいい、とシモンが言い張った。アランだけがツイッターをやっていたけど、5年前に一つだけツイートをしているだけの開店休業状態のツイッターで、しかも「こんな場所でツイートをしている作家なんて信用できない」という手厳しいツイート。フォロワーはもちろんゼロ。わざわざ、それを僕に見せてくれて、もう一度微笑んだ。こいつ、うざい。

でも、はじめて訪れたエトルタは僕に言葉では表せない感動を与えてくれた。ここは断崖で有名な場所。石灰岩が波で浸食されてこの世のものとは思えない不思議な風景を作っている。干潮で干上がった岩浜を僕は一人沖まで歩いた。正面に有名なアヴァルの門が見える。とにかくそこまで行きたかったので、みんなと離れ、二百メートルくらいの距離を、一人で用心しながら歩いた。晴天で沖まで見えていたのに、気が付くと、いきなり霧で包まれ、身動きがとれなくなった。侮っていたが、ここはノルマンディだ。視界が濃霧のせいでゼロになり、戻れなくなった。しかも足場の岩の上には若芽がびっしりと付着しており、滑りやすい。ここで転んだら、海に落ちて流される。泳げない僕は死んでしまうかもしれない。仕方がないので、そこで霧が晴れるのを待った。5分が過ぎた。こりゃ、思った以上にやばいな、と思った次の瞬間、これまでの絶望が嘘のようにすっと霧が雲散し、目の前にアヴァルの門が出現したのである。その感動と言ったらなかった。まるで、神がそこにいるような、本当に凄い神秘的経験だった。真空の中から、切りひらかれた巌の門が出現したのだから。
 

滞仏日記「僕はノルマンディーで美しい満月を見上げた」

エトルタを出た後、僕らはオン・フルールに立ち寄った。エリック・サティのジムノペディが大好きな僕の頭の中にはずっと彼のピアノの静かな旋律が響いていた。病気のお子さんと生きるエリックが「生きていることが大事だ」と海を見つめながら呟いた。その一言は僕の心にいつまでも残った。
 

滞仏日記「僕はノルマンディーで美しい満月を見上げた」

我々がトゥルーヴィルについた時はすでに夕刻であった。デュラスが若い恋人ヤンと過ごしたというアパート、ロッシュ・ノワールは今はホテル。その豪華な建物を浜辺側から4人で眺め、彼女が書いた小説「モデレート・カンタビーレ」について二言三言、言葉を交わした。「私は自分がどこへ行こうとしているのか決してわかってない。もし分かっていたら小説なんて書かない」彼女の作品の一節をシモンが朗読するように告げた。同感、とエロイーズが言った。振り返ると、西の海に沈む赤い太陽が見えた。僕らが夕陽に別れを告げているとアランが「諸君」と少し離れた場所で呼んだ。振り返ると、トゥルーヴィルの上空に満ちつつある月が出現していた。太陽が沈み、月が登る、このノルマンディの時間が愛おしかった。
 

滞仏日記「僕はノルマンディーで美しい満月を見上げた」

僕はみんなから少し離れて一人浜辺を歩き、こっそりと息子に電話をかけることになる。
「どう?」
「うん、大丈夫」
「ごはんは?」
「これから」
「A君とは何か話した?」
「うん、いろいろ」
「楽しい?」
「うん」
「明日の朝のサンドイッチは冷蔵庫、A君の分も」
「うん。わかってる」
「なんかある?」
「大丈夫」
「OK、なんかあったら電話して」
「OK」
そこで切れた。

夜、ノルマンディーホテルのバーでこの土地の文学関係者と合流した。みんな結構年配の人たちでずっと微笑んでいた。ブリュノというウクライナ系フランス人の新聞記者と一番気が合った。彼が阿部公房のファンで、本当によく読んでいて、僕は時間も忘れて話し込んでしまった。アルベール・カミュとの比較の話が面白かった。僕はその合間にA君に電話をかけた。A君は「何も心配いらないから、今を楽しんでください、ムッシュ」と言ってくれた。「いや、僕は何も心配なんかしてないんだよ。ただ、僕が作った日本のカレーが君の口にあったかどうかがずっと気がかりだった」と言うと、若い医学生は微笑み「日本のカレーライスは今まで僕が食べたカレーの中で一番でした」と言ってくれた。拍手が起こったので、振り返ると、みんなが僕を見ていた。どうやら、僕のスピーチの番のようであった。 
 

滞仏日記「僕はノルマンディーで美しい満月を見上げた」