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滞仏日記「不幸中の幸いというどん底を乗り切る方法」 Posted on 2019/05/04 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、友達と食事をすることになり、息子にご飯を食べさせて、家を出ようとしたところ、いつものカバンの中に家の鍵が見当たらない。
夕方、買い物に出た時にはそこにあったので、あるべき場所に鍵がないことで、慌てた。
息子にも手伝わせて、家中探し回った。
僕も息子も、何回もカバンをひっくり返してみたのだけど、ない。
カバンの中の全てのポケットに手を入れて探しても、ない。
時間切れとなって、息子の鍵を借りて、家を飛び出すことになる。
 



渡仏から18年(計算し直したら、17年じゃなく18年目に突入していた)僕は今日まで一度もスリや泥棒にあったことも、ものを失くしたこともない。
いつもカバンは、お茶を飲む時でさえ、膝の上におくし、スリの多いフランスでは、カバンはそもそも肩から斜めがけできる安全なものしか持たない。
ところがその日は鍵を探して時間が奪われたことで、友達を待たせてはいけないと大きな財布だけ掴んで飛び出した。
慌てて迎えに来た車(UBER)に飛び乗ったが、遅刻をするほど遅れたわけではない。
携帯を取り出し、車内でメールの確認などをした。
日本からの仕事メールに返事を打ったりしていた。
で、簡単に言うと、車を降りた直後に財布がないことに気が付いた。
友達にあげる日本で買った土産の入った袋だけ掴んで飛び降りてしまった。
携帯を握り締めていたので、財布と勘違いしたのかもしれない。
いつもは降りる時に何度も確認する性格なのに、魔が差した。
すでに車は100メートルほど先を走っている。
パニックになり、こういう時、咄嗟に何をしていいのかわからない。
友達はレストランにいる、車は遠ざかり、僕は携帯と紙袋以外何も持ってない状態だった。
まず何をするべきか、分からない。
頭の中にあるのは財布の中に何が入っていたか、ということばかり。
家の鍵、車の鍵、現金が300ユーロ、あとはなんだろう?
 



UBERの乗車情報から僕が乗った車は見つけ出せたが、その運転手と話す方法がわからなかった。
電話番号を残す作業までは分かったが、繋がらない。待たせている友人のところへ行き説明した。
その友人も今日、無理やり都合をつけさせて呼びつけたのだ。
店の支配人まで巻き込んで、この場合どうするべきか話し合った。
30分後、友達がドライバーと話を繋ぐ方法をネットで見つけ出し、やっとドライバーを捕まえることが出来た。
しかし、財布はもうなかった。二人のお客をその後拾ったのだという。
後部座席には財布はない、と運転手さんは繰り返した。
無一文なのと、パニックなので、食事などできるわけもなく、謝罪し、そこを離れることになる。
友達に警察に行くべきだと言われて、店の人に教えられた近くの警察へと向かった。
その途中、財布に何が入っていたのかをもう一度考えなおした。
泥棒やスリにあった時のことを考えて、カード類は全て家に置いて出たことを想いだした。
不幸中の幸いである。
身分証明書も同様に置いてきた。
これも不幸中の幸いだった。
携帯を握り締めていたことも不幸中の幸いだった。
財布の中には身分証のコピーだけをいざという時のために入れておいた。
あとは現金が300ユーロ(日本円で4万円)ほど。
そして、家の鍵と車の鍵だけだった。滞在許可証のコピーには古い家の住所が掲載されており、というのも、今は丁度、更新中で、新住所が掲載された身分証ではなかった。
もしも、新しい住所が乗った身分証と鍵が泥棒の手に渡ったとすれば、と考えぞっとした。
これも不幸中の幸いであった。

地球カレッジ

警察署の人に、盗難書類を出したいと伝えたが、それは盗難ではないし、パスポートやカード類が入ってなかったのであれば、何もすることはないですよ、と言われた。
鍵がどこかで見つかっても、保管場所で2日しか保管されないし、パリ中の鍵が届けられるので2日後には破棄される。お金はもうないだろう。
日本では財布が出てくる可能性はあるだろうけど、残念ながらここはパリだからね。
だから、あなたは何もすることがないのだよ。
誰かが財布を拾ったとしたら、現金だけ抜き取って、鍵などは捨てると思うよ、と言われた。車の鍵の予備があったことを思い出した。
不幸中の幸いであった。



ところが、くたくたになって、家に戻り、もう一度、カバンの中を探したところ、そこに鍵があったのだ。
何十回と探した場所に、である。信じられないことに、そこから鍵が出てきたのだ。
息子が出てきて、あるじゃん、と指さし言った。
お前がここに見つけて入れておいたのか? お前がやったのか? すると息子が怒り出し、何言ってるのパパ、僕はそんな暇人じゃないよ。
いや、じゃあ、おかしいだろ! あんなに二人で探したじゃん、と大声を張り上げていた。
「君だって何回もカバン探したじゃん」「パパだって、僕よりも必死に何十回って探してたじゃない。どういうこと?」僕らは狐につままれたような感じになった。
再び頭の中がパニックになった。落ち着いてよ、年なんだから心臓に悪い、と息子が水を入れて持ってきてくれた。
差し出された水を飲みほした。美味かった。
そして、彼が苦笑しながらこう告げた。
「パパ、神様がミスったんだよ。パパがあまりに哀れだから、あるべき場所にあるべきものを戻しておいてくれたんだ。神様もここまで事態が酷くなるとは思ってもいなかったんだろうから、許してあげようよ」
僕は思わず吹き出してしまった。
これはあまりに杜撰なミスですよ、と僕は天に向かって文句を言った。
落ち着け自分・・・・。
まあ、しかし、僕は命を落としたわけではない。
不幸中の幸いであった。
 

滞仏日記「不幸中の幸いというどん底を乗り切る方法」

 

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