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滞仏日記「フランスの保険会社の塩対応」 Posted on 2019/06/18 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、今日は「頭にきた」。水漏れのことは前にも日記で書いたが、一月ほど前に水漏れがあり、原因は上の階のキッチンの食洗器のつまりであった。息子のパソコンの上に水滴が落ちて、水漏れが発覚し、そのことを上の階の人に言い続けたのに、彼らは詰まった食洗器を使い続け、子供部屋と玄関の二か所に被害が広がった。フランスはこういう場合、双方が加盟する保険会社がこの問題を処理するのだけど、ここが不条理な第一点でもあるが、水漏れを起こされた側がその程度を調査し、相手の保険会社に報告を上げて、相手の保険会社が支払いをする。うちは日本にも進出している世界的に有名なA社(すでに15年ほど加入している)で、上の階はB社であった。

A社がペンキ屋とペンキ屋が出した額を調査する会社に依頼をする。ペンキ屋はすぐに来て湿度100パーセントと結論を出し、子供部屋と玄関のペンキを全て塗り替えると決定したが、それに不服を申し出たA社の調査会社はスケジュールがびっしりで発覚から2ヶ月後、それが、つまり今日の1時45分なのだけど、やってくるはずであった。ところが1時間経ってもやってこない。一度、不明の着信があったのでかけ直したが、出なかった。仕方がないのでその調査会社に電話すると受付の女性が「おたくの玄関のコード番号がわからないので、作業員は帰った」と言った。
「ちょっと待ってよ、ずっといたよ」
「でも、それは私の責任じゃない」
その人は言い張った。その先の対応をするというのではなく、拒否を続ける。名前を聞いても教えないし、私にはわからないし、責任はこちらじゃないと言い続ける。いつものフランス人の常套句、C’est pas ma faute、(私のせいじゃない)の連発だった。20分くらい口論をしたが、しまいには、私の立場ではこれ以上何もできない、と言った。その上、受付の人は、作業員はおたくの家の前で15分も待った、と強い口調で言った。
「その人は15分、そこで何をしていた? なんでもう一度電話をかけないの? 僕からの着信が残っていたでしょ? 僕がかけても出ないのおかしくない? 本当に来たの? 怠けてたんじゃないの?」
こういう時に日本の会社の対応は、どこも礼儀正しいな、と思う。僕の父親は日新火災海上保険の社員だった。父は自動車保険が専門だったが、お客さんが事故にあうと誠心誠意、自分のことのように対応していた。休みの日でも、電話がかかってくると、飛び出していく。パパ、日曜日だよ、と言っても、
「ひとなり、事故に巻き込まれ、困っている人がいるんだ。しかも、お客さんだ。保険というのはお客さんに何かがあった時にきちんと動いてこその仕事なんだよ。保険をとりに行くことだけが仕事じゃない。対応が大事なんだ」
と言った。
僕は父とはそれほど仲良くもなかったが、あの日の父の言葉は、仕事に対して責任のある大人の言葉として今も僕の心に焼き付いている。父は当時、北海道の帯広や函館の支店長を歴任していた。部下の人たちに慕われていた。僕には怖い人だったけれど、仕事の鬼だったのだ。そのことはよく覚えている。
「わかりました。あなたに話してもらちが明かないということが、さようなら」
僕は静かに電話を切った。父がこの人だったら、どんな対応をしただろう、と考え、僕は父を誇らしく思った。それにしてもA社にこのことを伝えたくても、問い合わせの電話番号もメールアドレスもないのだから、驚く。入口はたくさんあるのに、出口がないことがこの国ではよくある。日本の保険会社は本当に素晴らしい、と思った。
 

滞仏日記「フランスの保険会社の塩対応」