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人生は後始末「作家生活30年に向けて」 Posted on 2018/06/22 辻 仁成 作家 パリ

 
いったいこれまでに何冊の小説を書きあげてきたというのであろう。
1989年の10月5日に「ピアニシモ」ですばる文学賞を頂戴してから早いもので29年の歳月が流れてしまった。(あ、来年の10月で作家生活30周年になる!)
その間、数多くの小説を世に出させていただいた。エッセイや詩集なども数えると百冊に近いボリュームである。やれやれ。

そして、最新刊が河出書房新社刊、「真夜中の子供」ということになる。
拙著「海峡の光」は三島由紀夫の担当編集者だった坂本忠雄さん、当時の「新潮」編集長自らが寄り添ってくださり生まれた作品である。長い作家生活の中で、あの時ほど根を詰めて小説と向かったことはなかった。
文芸誌「すばる」でデビューしたのだが、ECHOESのボーカルだったし、ここでスター扱いされて己惚れていたら自分は間違いなくダメになると思い、原稿を抱えて新潮社の門を叩いた。
実際、本当に門を叩いたのだ! 知り合いは一人もいなかった。

新潮社最初の作品「母なる凪と父なる時化」がはじめて芥川賞の候補となり、その流れを受けて坂本さんが担当を買って出てくれた。
新潮社に呼び出され、朝まで個室に押し込まれ加筆訂正、推敲を繰り返した。書きあがった原稿は坂本さんがチェックし、真っ黒になるほどの赤(実際には鉛筆なので黒!)を入れられ戻された。
小説を書き上げた時、受賞するしかない、という根拠のない自信しかなかった。あの小説はそういう意味で小生が作家になるために重要な門の一つであった。
 

人生は後始末「作家生活30年に向けて」

 
最新作「真夜中の子供」はその舞台を河出の文芸誌「文藝」に移しての発表となった。
編集者の渡辺真実子、編集長の尾形龍太郎の両氏とは初面会だったが、「海峡の光のような小説をぜひ書いてほしい」と言われた。
恋愛小説の方が売れるからか、どこの編集者も恋愛ものを書けと言ってくる。個人的に、それはちょっと違うんじゃないか、と思い続けてきた。
読者が読みたいものを作家に書かせるのではなく、編集者自身が読みたいものを作家に書かせた時に、作品は多くの読者の手に届くのではないか、と思う。
幸いなことにこのお二人はそこのことをよく理解している編集者であった。
「文藝」という舞台で書かせてもらえることが心底嬉しかったし、その期待に応えることが作家の仕事だと決意し、力を込めて原稿と向かいあった。

西日本最大の歓楽街である中洲と神事である博多祇園山笠を舞台に書くことにどれだけのプレッシャーがあったかはご想像にお任せする。
何度も中洲に赴き、クラブの経営者、ソープランドの客引き、ホストたち、或いは地元で古くから商売をされている商店主、博多祇園山笠中洲流の方々に取材を申し込んで話を聞いた。
「海峡の光」の時も、元受刑者、地回り、刑務官、元青函連絡船の船員など多くの人の人生に耳を傾けてきた。
人々の誠実な声に耳を傾け、そこから物語の芯を見つけ出すのが作家の仕事の一つである。
いつだって新しい小説に向かう時にはプレッシャーを覚えるが、今度の作品は30年近い作家活動に恥じない作品にしたいという強い決意で向かわせて頂いた。

だからか「文藝」に掲載された時の喜びはひとしおであった。それがこうやって単行本になり、全国の書店に並んだのだ、感無量というよりほかに適切な言葉が思いつかない。
手に取って頂いた読者の皆さんがこの青春群像小説をいとしく思って頂けることを作家はここパリの空の下から願っている。
そして、作家の第二幕のはじまりである。その道はさらに長く険しい。
 

人生は後始末「作家生活30年に向けて」

今日の後始末。

「単行本が手元に届いた時、小生はまず紙の匂いを嗅ぐ」