連載小説
連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第14回 Posted on 2025/10/23 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第二部「夢幻泡影」第14回
とりあえず、じっとしているわけにはいかなかった。土下座をしに事務所に来い、ということはそこで、あいつらに半殺しもしくは殺されることを意味する。のこのこ出て行くのは愚か者のすることだ。まずは、アカリを電撃的に救出するのが優先事項だった。
冷静になれ、と怒りに震える自分を戒めた。失敗は許されない。しかし、どうやって、救出すればいいというのか。見張りもいるだろうし、そもそも罠かもしれない。まずは、エアタグの現在位置を「探す」機能で再確認した。ラブホテル街と住宅地のあいだに位置する場所に間違いはなかった。もう少し、拡大し、正確な場所を調べた。角地にある建物の真上で青い丸が制止している。建物の規模感は不明だが、この高層マンションよりもうんと小さい、おそらく雑居ビル程度の建築物と思われる。グーグルマップを使って、その場所を確かめると、かなり年代物の、4階建ての低層マンションということが分かった。アカリはここの一室に監禁されているに違いない。青い丸の位置から推測するに、通りに面している部屋の可能性が高い。古い時代の建築物だからか、外に面して各階に外廊下が出っぱっており、グーグルマップ上で、少なくとも一階、二階までは各部屋のドアも確認出来た。実際の現場に行けば、もう少し状況が分かるはずである。

© hitonari tsuji
地回りや半グレたちが屯しているのは繁華街周辺だから、そこは中心地から少しだけ離れた場所にある。変装に使えるものがないか、ウオーキングクローゼットなどを物色すると、灰色のキャップが出てきた。目深にかぶれば、顔は隠すことが出来る。俺は久しぶりのしゃばに飛び出すことになった。
コンビニでマスクを買い、目以外の、顔のほとんどを隠した。出来るだけ繁華街を避け、遠回りしながらラブホテル街を目指した。ニシキやヒロトが出入りしている事務所は、繁華街中心部、ゴジラヘッドの並びの雑居ビル。そこらへんには、やつらの仲間が運営するクラブなどが林立している。俺は出来るだけ住宅地や人通りの少ない路地を選んで移動した。警戒しながら20分ほど遠回りをしつつ歩くと、アカリのエアタグが示す場所に出た。グーグルマップで確認した通りの建造物であった。見回す限り、周囲に見張りはいない。ちょうど、真正面に小さな駐車場があり、角に自販機が並んでいたので、その後ろに潜み、出入りをチェックすることに・・・。「探す」機能の青い丸は、路地側に面した場所で静止している。だいたいの検討をつけた。各階にドアが4つしかない。全部で、16戸入りのマンションであった。こうやって見張っていれば、いつか何らかの動きが出る、と俺は確信した。あとは時間との闘いであった。
自販機でジュースを買い、その陰に隠れた。古びたマンションに出入りする人間はすべて携帯で撮影し、記録することにした。けれども、ニシキの仲間や監禁に関係するような人物の特定には至らなかった。人通りは少ない。車の出入りの時だけ、俺はそこから離れ、周辺を歩いた。けれども、輩のような風体の人間とすれ違うことはなかった。
陽が暮れだした頃、動きがあった。不意にどこからか出現した女が、結構膨らんだコンビニの袋を抱えて、建物の中へと入っていった。その女は二つある階段の右手側から登ると、二件目のドアの中へと入っていった。あれ? 誰だっけ?

© hitonari tsuji
撮影した写真を拡大すると、第三の女に似ている。所作に見覚えもあった。背が高く、やや男性的な骨格を持っている。あの女が言った言葉が蘇った。
『・・・それまで暮らしていた小さなマンションは物置として残している・・・』
確かに、あの女はそのようなことを言った。贋作家として成功する前まで、あの女はここで暮らし、ここからデパートに出社し、苦情係をしていた、ということになるのか・・・。まさか、ということは・・・。アカリを拉致したのは、ニシキらじゃなく、あの第三の女ということもありうる? 狂言・・・。しかし、いったいなんのために?
俺は女のアパートのドアを睨みつけた。青い丸はそこで停止したままだ。そこにアカリが監禁されている可能性がある。コンビニの袋を抱えていた。アカリに与える飲み物や食べ物を買って来たのに違いない。どうしたらいい? 俺は必死で考えた。
裏手に回ってみた。塀をよじ登り、ベランダから入ることも出来ないわけではなかった。しかし、他に誰かがいる可能性もある。もう少し、様子を見た方がいいかもしれない・・・。
時間が流れ、夜になった。あたり一帯は暗くなり、いくつか灯りが灯った。16戸のうち、室内に人がいるのは、4戸に過ぎなかった。第三の女の家も、奥の方にうっすらと光を感じる。もうあの扉が開くことはないのだろうか? 第三の女は、どこで寝泊まりしているのだろう。アカリを監禁している部屋の隣の部屋などで、息を潜めている可能性もある。それに、そもそも、どうやって、アカリを監禁することが出来たのだろう? 力づくでアカリをここまで引っ張ってくることは出来ない。或いは、タキモトかミルコに変装し、アカリを呼び出した可能性もある。呼び出して、睡眠薬などを飲ませ、ロープで縛り監禁した、という流れか・・・。でも、何のために? すべてはあの第三の女の仕業だと思う方が理に適っている。タキモトやミルコなどやはりいないのかもしれない。すべてはあの第三の女の仕業だと思う方が筋は通りやすい。分裂症のふりをしているだけで、実際は、あの女が全部計画をしたのなら・・・? いや、しかし、そうだ、いったいなんのために?

© hitonari tsuji
俺は周囲を警戒しながら、一度、忍び足で階段を上り、女が入った部屋の様子を探ることにした。白いドアには202と記されたプレートが貼られてあった。中は暗く、動きを感じない。気づかれないように、急いで階下におり、郵便受けをチェックした。「202号室、高沢」と表記されてあった。高沢? ポストには鍵はかかっておらず、郵便受けの扉を開けると、ほとんどが、ブティックなどの案内状で溢れていた。その中に、水道局からの督促状が混じっている。掴んで覗いた。「高沢育代」という名前があった。他のものも、すべてチェックしたが、郵便物は「高沢育代」宛てのはがきや封書ばかりだった。住人の誰かが戻って来たので、俺は、何食わぬ顔で、ポストの蓋を閉め、慌てず住民のふりをして、駐車場へと退避した。
あの第三の女は高沢育代である可能性が出てきた。水道局からの封書にそう書かれてあるのだから、高沢育代は実在の人物となる。では、なぜ、高沢育代はこのようなややこしいことをしないとならないのであろう。その時、女の部屋のドアが開き、ゴミ袋のようなものを持って、あの女が階段を降り始めた。建物脇に付帯するゴミ置き場へと向かっている。ドアが少しだけ空いている。一瞬、悩んだが、気が付いたら、身体が先に動いていた。
次号につづく。
※本作品の無断使用・転載は法律で固く禁じられています。

© hitonari tsuji
辻仁成、個展情報。
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パリ、10月26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」現在開催中です。
住所、20 rue de THORIGNY 75003 PAROS
地下鉄8番線にゆられ、画廊のある駅、サンセバスチャン・フォアッサー駅から徒歩5分。
全32点展示。残り数点になりました。
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1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。



