連載小説
連載小説「泡」第一部「地上」第7回 Posted on 2025/09/17 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第一部「地上」第7回
「ミルコ?」
と玄関に佇む男が怪訝な顔付きで言った。
「でたらめ言うな。警察に突き出してやる」
「ちょっと待って、本当なんです」
「俺のバスローブ着て・・・、何してんだお前、ここで」
男の声は低く、抑揚が無いので、ある種のすごみを感じた。逃げ出すことも出来たが、バスローブの恰好じゃ、どうにもならない。俺は急いで携帯を取り出し、
「ミルコさんに電話してみます。ちょっと待って。彼女に説明してもらえば誤解はすぐに解けるはずだから」
と言いながら、さっき登録したばかりの電話番号をプッシュした。けれども、呼び出し音がなるばかりで、何度かけ直してもミルコが出ることはなかった。男は小さく舌打ちをしてから、
「出るわけない。ミルコは死んだ。5年も前に」
と告げた。俺の心の中に、ある種の混乱と衝撃が走りぬける。そして動けなくなった。
「・・・死んだ? 嘘だ。自分は昨日、バーで意気投合して、ここに連れてこられた。生きていたし、温もりもありました」
キツネにつままれたような感じとはこのことであろう。男が何を言っているのか、さっぱりと理解出来なかった。男は靴を脱いで、俺の横を通り抜け、リビングルームへと入っていった。俺は男の後を追いかけた。男は冷蔵庫を開け、中を確認してから、一度、テーブルを振り返った。俺が飲みほしたビールの空き缶を見つめて、
「全部、飲んじゃったのか」
と呟いた。
「ミルコさんが、何でも飲んでいいって、言ったから・・・」
そう言いながら、俺はテーブルの上にミルコさんが俺に残した手紙を見つけた。それが証拠になる。慌ててそれを掴み、男の前に差し出してみた。
「これ、見てくださいよ。今朝、彼女が仕事に行く前に書いた俺への手紙です。これでも死んだ、と言い切れますか?」
男はそれを受け取り、さらっと斜め読みしたが、何事もなかったかのように、それを丸めて、ゴミ箱へと放り込んだ。
「なんだ、こんなもの。でも、こうやって、あの手この手で、いつも生きていることを試そうとするから、困る」
「そんな、・・・」
「まだ、あいつは、自分は死んでないと思い込んでいるんだよ」
ミルコが言った言葉を俺はもう一度思い出さなければならなかった。
『わたしね、時々、自分が生きてないんじゃないかって、思うことがあるの』
バカな、と俺は思わず吐き捨てた。男が冷蔵庫からシャンパンのボトルを取り出し、それを器用に抜栓してみせた。シャンパングラスを二つ取り出し、テーブルに置くと、交互に注ぎはじめる。
「呑むかい?ミルコが繋いだのがわかったから、少なからず、俺たちには縁がある。なんで君が選ばれたのかはわからないけれど、きっとなんらかのご縁があるのだろう」
男はそう告げると、微かに笑ってみせた。
「ご縁?」
© hitonari tsuji
もしかすると、ミルコとこの男はグルになって、俺をだまそうとしているのかもしれない、と勘繰った。でも、なんのために? 俺なんかを騙してなんになる? 何が起きているのか、さっぱり見当がつかない。ただ、たとえば、自分がアルバイトから戻って、自分の家にアカリではなく、知らない男がいたとしたら、俺はこの男のごとく冷静にふるまうことが出来るだろうか? 間違いなく、暴れて、もしかすると、そいつを殺しかねない。なのに、目の前の男ときたら、俺にシャンパンを勧めてくる。仕組まれているように俺が感じるのは当然だった。これがドラマだったら、視聴者を裏切る大どんでん返しが用意されている可能性もある。でも、きっとそんなものはない、あるとすれば、この男が言った何某かの「縁」による偶然の成せる技であろう。
男は黄金色に輝くシャンパングラスを掴むと、テーブル席に腰を下ろし、それを口に含んだ。バスローブのポケットの中で携帯が不意に振動した。我に戻った俺は、携帯を取り出し、覗き込む。アカリからライン・メッセージが飛び込んできた。反射的に、俺はそれを開いた。すると、一秒後、突然、そのメッセージが削除されてしまった。しかし、目の奥に一瞬焼き付いたことばがあった。
『彼氏にバレちゃった』
メッセージをすぐに削除したということは、別の人間に送ろうとしたのに、間違えて、俺に送信してしまい、慌てて削除した可能性がある。急いで「探す」機能をチェックした。アカリは、まだ、家にいた。くそ、ふざけやがって。もし、そうだとしたら、許せることじゃない。俺は部屋を出て、バスルームへと走った。そして、脱ぎ捨てていた服をかき集め、急いで着替えた。廊下に飛び出すと、男が俺を待ち受けていた。
「どこ行く?」
「帰ります」
「なんで?」
「なんでって、ミルコさんが死んでたなら、俺がここで帰りを待つ意味もないでしょ? 」
男は少しだけ悲しそうな顔をしてみせた。気になったが、俺にはこの謎々に付き合っている暇はなかった。家に戻り、アカリを問い詰める必要があった。そうだ、俺にはまだ未練がある。『彼氏にバレちゃった』という誤配信のせいで、俺の心にまた火が付いた。俺は幽霊なんかと付き合っている暇はない。
「よければ、もう少しここにいて貰えないか」
「何、言ってんだよ。帰ります」
男が明らかに悲しそうな顔になり、今度は、じっと俺を見つめてくる。急いでいるので、俺はその男の横を強引に通り抜け、玄関口で自分の靴を履いた。
「ちょっと待ってくれ。君は今、どんな仕事をしてるの? その仕事に満足しているかい? かなりいい条件の仕事がある」
男がズボンの後ろのポケットから財布を取り出し、中から名詞を抜き出し、俺に素早く手渡してきた。タキモト・アートギャラリー、と名刺には印刷されており、その下に、瀧元創元と名前らしきものが印刷されてあった。住所はこのマンションだった。
「今、君が貰っている給料の3倍は保証する。交渉次第でもっと出す。決して悪くない仕事だと思う。こんなことをいきなり言われても理解できないかもしれないが、ミルコの意思が君をここに連れてきたのなら、何か意味がある。あいつは、君が適任だと思っているのだと思う。死ぬ直前まで、大きなデパートで働いていて、人を見抜く力があった」
俺は靴を履き終えると、一度嘆息を漏らし、ドアの把手に手をかけた。
「気が変わったら、たぶん、変わると思うが、その名刺の携帯番号に電話をくれないか。きっと、いい話だと思うよ。君のように若く、エネルギッシュな人間を雇いたかったんだ。これは縁だと思う」
俺は貰った名刺をポケットにしまい、そこを後にした。こんな茶番に付き合ってはいらないれない。今の俺にはまず解決しないとならない問題があった。
© hitonari tsuji
エレベーターで地上階に降り、記憶にないエントランスを通過し、外に飛び出した。少し走り、一度、タキモトのマンションを振り返った。このあたりでは飛びぬけて大きさの高層マンションだった。高層階の角に位置する部屋のテラスに、俺を見下ろす人影のような黒い点を見つけた。タキモトかもしれない。しかし、今は、アカリの問題が先決だった、俺は踵を返し、雑念を振り払い、再び走り始めた。
駅へと向かう人々や、駅から歓楽街へと向かう人々が交差する猥雑な路地を、ゾンビのような人間たちをかき分け駆け抜けた。不夜城のような街だが、日が暮れたあと、さらに賑やかになる。俺が働くラーメン屋「黒点」を通過した。すでに行列が出来ていた。一瞬、カウンターの中に野本店主の姿を見つけた。でも、今の俺にはどうすることも出来ない。もう、ここに戻ることもない気がする。
とにかく、今もこれからも問題はアカリだ。俺には怒りがあり、未練があり、そしてきっとまだ愛もあった。『彼氏にバレちゃった』というメッセージの意味を必死で考えながら、俺は走り続けた。あの取り消されたメッセージは、関係を持った男の中の誰かに送られるものだった可能性がある。あるいは、もっと他に、想像もつかないような男が潜んでいる可能性もあった。おちょくりやがって、という怒りが今この瞬間の俺のエネルギーのすべてだった。俺にバレなければ、俺の陰で、そういう連中と肉体関係を持ち続けていた、ということだろうか? 確かめないわけにはいかない。くそ女、ぶっころしてやる。
俺は怒りの弾丸だった。もし、アカリが俺の想像を超えて俺を裏切っていたなら、俺はあいつを殺す。そして、自分も死ぬ。『しゅうちゃん、一緒に死んでくれる?』とアカリは言った。そして、あいつは、少なからず、あの窓から飛び降りようとしてみせた。間一髪、俺はあいつを救出することが出来たが、でも、あの突発的な自殺未遂も冷めやらぬうち、あいつは、誰かに「彼氏にバレちゃった」と送信した。修羅場をごまかすための芝居だったのか・・・。
はっきりとさせてやる。俺はあいつを問い詰め、男たち一人一人の素性を暴き、ボコボコにしてやるつもりだった。そうじゃないと、俺は惨めな負け犬になってしまう。俺のあいつへの愛はそれほどに真っすぐなものだった。俺の未練と愛は俺の怒りに油を注いだ。燃え上がるエネルギーで、俺はこの地上を駆け抜けていく。激しい怒りの孤独な弾丸だった。
次号につづく。(たぶん、明日です)
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辻仁成、個展情報。
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パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。
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1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。
ラジオ・ツジビルはこちらから
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posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。