連載小説

連載小説「泡」第一部「地上」第8回 Posted on 2025/09/18 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第一部「地上」第8回

   外国人観光客や仕事終わりのサラリーマン、学生などが蠢く地上を抜け、俺は俺の家がある雑居ビルの最上階まで、建物の裏にある非常階段を一気に駆け上った。ビル表側にエスカレーターがあったが、俺の部屋は階段でしか上がることのできないペントハウス、と言えば聞こえはいいがビルの上に増設された夏は暑く冬は寒いプレハブ物件だった。最上階には二つアパートがあり、隣はこの建物の大家が書庫兼仕事部屋として使用しているが、上がって来るだけでも一苦労なので自分たち以外の人間に滅多に会うこともなく、プライバシーだけは確保されている。周辺の高いビルのせいで空はかなり狭かったが、真正面のビルも同じくらいの高さで、コカ・コーラの巨大な看板のライティングショーを独り占めすることが出来る。その輝く広告塔の向こう側に、かすかに超高層ビル群の頂きが見えた。いつもは一気に駆け上がるのだけれど、今日はアカリに感づかれたくなかったので、8階あたりから速度を落とし、一段一段踏みしめつつ、様子を見ながら登ることになる。
   最上階に出ると、ドアの前の僅かな踊り場で数分、呼吸や気持ちが落ち着くのを待った。それから、意を決し、ベルトルーフに付けてあるリール・ホルダーから鍵を伸ばし、鍵穴に、ゆっくりと差し込んで、回転させた。チェーンロックはかかっておらず、ドアはすんなり開いたが、玄関にアカリの靴はなかった。部屋の中を探し回ってみる。あんなに破壊したというのに、元通り、部屋はきれいに片付けられてあった。もっとも、割った花瓶はもうそこにはなかった。そして、アカリの姿もなかった。俺は携帯の「探す」機能で、アカリの所在地を確かめる。アカリは、すれ違うように、ここを出てしまい、地図上の青い丸は、あかりがいつも立ち寄る繁華街のあたりを移動していた。ここでじっとしていても埒が明かないので、携帯のモバイルバッテリーを掴んで、再び外に飛び出すことになる。

連載小説「泡」第一部「地上」第8回

© hitonari tsuji



   大通りを渡ると、眠らない街の異名を持つ歓楽街に入る。大衆居酒屋はもちろん、キャバクラ、ガールズバー、ホストクラブ、ショークラブ、風俗系の店なんかが犇めきあい、かなり低い位置から天空までずらっと続く火入れ看板のせいで、どこもかしこもあっけらかんと夜中のあいだ、光り輝いていた。ところどころ路地が張り巡らされており、道幅が狭くなればなるほどに妖艶な暖色照明が怪しさを際立たせてくる。「ぎらつく」という言葉が似合う街だ。
   昼は割と静かだが、夜は眠らないだけあって、朝が近づくまで欲望と渇望と切望がせめぎ合い、苛立たしく賑わう。この時間からすでに道で寝ている若者たちもいれば、怖そうな連中が街角で目を光らせているし、見回りの警察官もいた。俺はネオンのせいで真っ昼間のように明るい交差点の中心に仁王立ち、一度、「探す」機能でアカリの場所を再確認した。青い丸は休むことなく動いている。よく見ると、どうやら、近くにいる。慌てて、周辺を振り返り、ここがどこなのか、どっちが北で、どっちが南なのか、携帯を羅針盤のように動かしながら、アカリがいる方向を特定するため、交差点の中を動きまくった。どうやら、ゴジラヘッドの真裏の小道を歩いているようだ。俺はモバイルバッテリーと携帯を掴んで、青い丸の方へと走り始める。
   この道を真っすぐ突き進めばアカリとぶつかるはず。奥歯を噛み締め、くそ、と怒りをまき散らしながら、俺はだらだらと歩く人々のあいだを高速で潜り抜けた。まもなく、人々の頭の向こう側に、見覚えのある人影を捉えた。アカリかもしれない・・・。けれども髪を左右で結わいツインテールにしているし、胸元が少し開いた薄いピンク色のドレスを着ている。それは俺の知らない、かつて一度も見たことのないアカリであった。でも、アカリに間違いはない。エアタグと一致している。アカリの横に、見知らぬ奇妙な黒い恰好の男がいた。どういう関係なのかわからないが、でも、男だ。くそ野郎、とっ捕まえて叩きのめしてやる。
   しかし、次の瞬間、カメラを構えた観光客の外国人が、何かを撮影しながら俺の眼前に割り込んで来、ぶつかってしまった。その反動で男はよろけ、携帯がすっ飛んだ。そいつの横にいた別の外国人が去ろうとする俺の腕を掴んだ。どこの国の人間かわからない数人のグループに取り囲まれ、聞きなれない言葉で、文句を言われた。そいつの腕を振り払い、関わらず、行こうとしたが、一人が俺の行く手を遮った。普通なら、叩きのめしてやるところだが、今の俺には時間がない。ソーリー、と謝ったが、そいつらはぶつぶつと何か吐き捨てている。くそ、どけよ、こら、てめーらがぶつかってきたんだろーが!と俺はわめきたてた。周辺にいた人たちが、驚き、俺たちを囲む感じで空域が生まれる。てめーら、邪魔なんだよ、どけよ、こら、どけ、と俺は叫び続けた。すると、人だかりの向こう側から、警官たちが割り込んで来た。くそ、このままじゃ、貴重な時間が奪われてしまう。俺はイチかバチか、立ちふさがる男にタックルした。そいつが転倒して、周辺がざわつく隙に、脇の路地へと逃げ込んだ。走った。走った、全速力で走り抜けた。

連載小説「泡」第一部「地上」第8回

© hitonari tsuji



   いくつかの路地を曲がって、ビルとビルのわずかな空間にゴミ箱が並ぶスキマがあった。俺はそこに身を隠した。この程度のことで、警官が追いかけてくることもないが、態勢を整えるために、隠れた。この歓楽街では日常茶飯事のもめ事の一つに過ぎない。ここは俺の街だ、なんとでもなる。ほとぼりが冷めるまで様子を見ることにした。大きなゴミ容器の陰に潜み、携帯の「探す」機能で青い丸をチェックした。青い丸は、ゴジラヘッドの脇を抜け、一度、大通りの方へと迂回し、それから方向を変えると、今度は、神社の方へと進路をとった。こんな感じで、目まぐるしく、この歓楽街の中をぐるぐると動き回っている。アカリもあの騒ぎの時に俺に気が付いたのに違いない。でも、なぜ、逃げる? 男がいるからか。そいつが俺にボコボコにされるからか。もっと後ろめたいことがあるから、逃げるに違いない。ぐるぐる、ぐるぐるとこの街のあちこちを移動していたが、青い丸は、20分ほどして、一つの地点でぴたりと動かなくなった。  
   眠らない歓楽街の奥深く、アイドルのようなホストたちの巨大看板が犇めく交差点の一隅に、若者が屯する駐車場があった。突き当りに地階へとおりるコンクリートの入り口があり、そこからビート音が溢れ出している。低音が駐車場全体を揺さぶっている。中で行われているパーティの様子が分かる。俺は1時間近く、もの陰から、出入りをチェックしていた。アカリのエアタグの位置とも一致している。エアタグはその地下で行われているパーティ会場にあるはずだ。そして、どこからともなくやってくるおかしな恰好をした連中、顔中にピアスをつけたやつ、全身ラテックスで身を包んだ奴、入れ墨だらけの奴、いわゆる一世代前のゴスロリの恰好をした奴、奇抜なスタイルの男女が、ぞろぞろと入っていく。地下へと降りる入り口の前にはセキュリティー・バウンサーが立ちはだかり、入場者の識別をしていた。
   アカリがピンク色のドレスを着て、髪の毛をツインテールにしていたのは、ここに入るためだったに違いない。Tシャツとジーンズ、俺のこの格好じゃ潜入できそうにない。俺は鎖をジャラジャラと身にまとい、頭をモヒカンにしている若い男をとっ捕まえ、あそこで何やってんだ、と威圧的な感じで問い正した。若い頃はずっと柔道をやっていたので、俺にはこの程度のへなちょこには負けない自信があった。そういう力関係というのは、相手にも伝わる。腕を掴む時、ちょっとひねるような感じで力を込めてやった。鍛えてない連中は、恰好は尖がっていても中身は脆弱な腰抜けばかりだ。覚悟なんかもない。俺には覚悟がある。アカリとのけじめはつけてやる。主催は誰か、と畳みかけるように聞いた。「ハラグチさんです」とモヒカン男が素直に言った。

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連載小説「泡」第一部「地上」第8回



   「DJのハラグチか。ロン毛の」
   「そうです。テツヤさん」
   俺はそいつの腕を離した。力が籠りすぎたせいで、モヒカン男は顔を歪めて、痛いす、と呟いた。
   「ドレスコードは」
   「男は鎖で、女はピンク」
   「もういい、行け」
   「俺は近くの工事現場に忍び込み、鉄柱に巻き付けられているかなり錆びついた鎖を見つけた。どこかに作業道具がまとめられてあるはず。昔、工事現場で働いてた経験と勘が役立った。工具を集めた場所を見つけ、それは小さな南京錠で閉ざされていたが、足で何度か蹴とばし破壊した。ビスや金づちなどの工具が出てきたが、ちょうど役立つ、ボルトカッターと呼ばれる番線切断道具を見つけた。これさえあれば、鎖など一瞬で切断できる。錆びついた鎖を首のあたりに巻き付け、パーティ会場の入り口に立つバウンサーの前に進み出た。
   「招待状かなんか、ありますか?」
   「忘れた」
   「どなたか知り合いいます?」
   「ハラグチ」
   「どうぞ」
   バウンサーが道を開けたので、そいつを睨みつけ、胸を軽く小突いてから、中へと潜入した。地下へと降りる階段はすでにハードなインダストリアル・テクノ系の爆音で満ち溢れていた。ヘヴィーなキック音が鼓膜を突いてくる。でも、怒りに突き動かされている今の俺には、もってこいのアグレッシブなサウンドだ。金属的な繰り返すリズムの中で、俺は目を凝らし、ツインテールのアカリを探した。ついでに、ハラグチを見つけてやる。アカリを招待したのは、間違いなく、ハラグチだ。そして、ハラグチがあの3人のうちの一人かどうか、確かめる必要があった。もしそうなら、その場で、ボコボコにしてやる。俺はその時、もはや覚悟しかない、燃え盛る炎の弾丸だった。

 
次号へつづく。(個展近づいてますが、明日の配信目指してます)

 
※本作品の無断使用・転載は法律で固く禁じられています。

連載小説「泡」第一部「地上」第8回

© hitonari tsuji



辻仁成、個展情報。

パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。

1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。

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TSUJI VILLE
自分流×帝京大学



posted by 辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。