連載小説
連載小説「泡」第一部「地上」第13回 Posted on 2025/09/24 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第一部「地上」第13回
「アカリはね、今、ものすごく後悔して落ち込んでいるの。しゅうさんを傷つけた自分が許せないみたいで、とっても元気がない」
アケミが言った。
「そんなの聞きたくねーよ」
俺は湯を沸かし、インスタントのコーヒーを2つ入れ、ひとつをアケミに手渡した。職業はホストだとハラグチに教えられていたが、アイドルみたいな感じではなく、もしかするとビシっとメイクでもすればかっこよくなるのかもしれないが、かなりあか抜けしない、そこら辺にいるごく普通の瘦せ細った男の子なのだ。ただ、利発そうな顔はしている。大きな、しかも丸メガネを小さな顔にかけているから、メガネの印象が強い。短髪で、おでこが出っ張ってる分だけ、頭は良さそうだけれど、どうやって、ホストが務まるのか、全く分からない。でも、そんなことはどうでもいい。
「今、アカリ、どこで何してるの?」
やっぱり気になるから、話はそこから始まった。予期せぬ別れだったから、それも物凄く振り回された挙句の離別だったので、正直、未練はあった。この数か月、俺はアカリだけが世界の中心だった。その地軸のようなものを失ったので、今は、生きる上で支えがないような、立っていてもすぐに折れ曲がりそうな不安定な状態の中にあった。
「今は、うちの実家にいる。繁華街の外れ、民家が集まっている住宅地の古い一軒家に。嫁に行った姉の部屋がちょうど空いていたからさ、彼女はそこで寝泊まりしてます。でね、今日、ぼくがここにお邪魔をしたのは、アカリに頼まれたの。必要な荷物、下着とかワンピとか、そうそう、猫を引き取ってきてほしいって、まだ、しゅうさんに、直接会える感じじゃないからって」
「猫?忘れてた」
俺は慌ててバスルームに走った。脱衣所に置いてある猫用自動給餌器の中に、少し、餌が残っていた。食べ残すのは珍しいが、俺が大暴れをしたせいもあり、猫なりにストレスを感じているのかもしれない。
猫用自動給餌器はタイマー式で、遠隔で操作もできる。普段、二人が外出している時なんかは、アカリが遠隔操作で餌の管理をしていたし、猫にも、エアタグが付けられている。アカリが俺にエアタグを持たせた動機は、「灰色」の管理と変わらない意味があったのかもしれない。俺だけ持たせるわけにはいかないから、自分の分も買ったのか。
寝室を覗くと、ベッドの上、いつもアカリが寝ている窓側の端で「灰色」が丸くなっていた。俺は「灰色」を抱えて、外出用キャリーバッグの中へと押し込んだ。
「どうした?」
アケミがじっと俺を見ているので、聞くと、「しゅうさんって、不思議なオーラしてますよね」と徐に告げた。くそ、またそういう類の話かよ。丸メガネはそそくさと立ち上がると、俺の背後などを覗き込む。
「何が見えんだよ。なんか憑いてんだろ? へんなのがうじゃうじゃ」
「いや、レインボーが見えます」
俺は思わず吹き出してしまった。なんだよ、それ!?
「オーラって生命エネルギーみたいなものなんすけど、だいたい、単色が多くて。でも、しゅうさんは7つの色が虹みたいに配置されて、それって、けっこう、はじめて見たかも。赤は情熱、青は誠実、緑は自然、ピンクは優しさ、黄色は幸せ、紫は霊性、そして、白が純真、なんですが、珍しい、メインカラーが揃ってる」
「すげーじゃん。やっぱ、なんかあんだな、虹って、俺っぽいし。そんで、ちなみにアカリは何色?」
© hitonari tsuji
「金色」
「金!?」
「最強です。あらゆるオーラの中でも、比類なき存在で、だから、ぼくはアカリちゃんのおともをしています」
おとも? 俺は鼻で笑った。桃太郎かよ、くだらねー、と笑いながら、吐き捨ててやった。でも、アケミは表情一つ変えることなく、俺を凝視してくる。
「そんな最強なやつが、嘘ついたり、他に男作ったり、自分勝手にふるまって出てったり、するんだ、えー? お前の目は節穴か。真面目に話聞いて損した」
「いや、でも、金は珍しい。ただ、ちょっと心配なことがあるの。しゅうさんしか、アカリを助けられない」
「助ける? またかよ。もう、そんな気力ねーよ」
「アカリが今、心を寄せている相手が彼女にとっては、非常にまずい存在で、このままだと、アカリちゃんのオーラ奪われちゃう」
「どういうことだよ」
アケミは下を見つめ、しばらくのあいだ、言葉を探すように、考え込んでいる。キャリーバックの網目越しに「灰色」が俺をじっと見あげている。
「そいつのオーラは何色なの?」
「それが、オーラがない。ブラックホールのような感じで、どんどん周辺のカラーを吸い取っていく危険な人物です」
「あほくさ。じゃあ、聞くけど、そのブラックホール野郎は、この辺のやくざの御曹司か、それとも怪しい宗教団体の教祖か、陰謀団の団長か? 笑わせるな」
「違う。一度だけ一緒に会ったことがあって、なんでこんな人とって、思うくらい、普通です。しゅうさんの方がぜんぜん素敵なのに、アカリが心酔していて、それが、心配になるレベルで、マジ、やばいんです」
俺はコーヒーカップを掴んだまま、じっと、アケミの目を見つめた。なんで、そんな意味不明な怪しい男を選んで、俺をふるんだ?アカリの心模様が気にならないわけがない。そいつ喧嘩強いのか、と聞くと、アケミは首をふった。じゃあ、億万長者か、と訊いたら、肩を竦めた。ハンサムじゃないのか、と先回りして問いただすと、わたしの心は靡かない、と戻って来た。
「でも、とっても嫌な感じがする。その人の背後にはすとんと奈落のような暗黒が広がっている。ぼく的には近づけない嫌な気配に満ちていて。だから、彼女がまだ迷っているうちに、しゅうさんにアカリの心を取り戻してほしいの」
取り戻せるなら取り戻したい、と思った。アケミの話だけじゃ、よくわからないが、今はちょっとだけ、昨日の今日だから、様子を見た方がいいだろう。そのことをアケミに伝え、出来ることはするよ、だから、何か動きが会ったら、また、教えてくれ、と言っておいた。一応、アケミとラインを交換しあった。アカリが好きになった男の正体を見定めたい、という情けない気持ちもあった。アケミからいろいろと情報を収集するための連絡先を交換。アカリに未練が残っている自分の情けなさに、少し、腹も立った。でも、まだ、好きなんだから、チャンスがあるなら、じっとはしていられない。それを希望回復作戦と俺は名付けることにした。
「でも、ぼくはそんなしゅうさんが好きよ」とアケミが言い放って猫と荷物を持って出て行く。くそ野郎、と俺は閉まったドアに向かって小さく毒づいてしまった。けれども、理解出来ない脱力感に襲われ、しばらく、その場から、動けなくなってしまう。ふられたことに、かわりはない。未練のせいで苦しい。
© hitonari tsuji
「黒点」で、ラーメンを作っている最中も、ずっと頭の中には「アカリ」がいた。知り合いがバイク事故で急逝した時、その死をすぐに受け入れることが出来なかったのと一緒で、1日、2日と時が過ぎるに従って、失った悲しみがリアルに立ち上がり、どんどん深まり、否応なしに悲しみに飲み込まれた。短い交際だったとしても、そこにアカリがいない喪失感は半端ない。茹で上がった麺を湯切りする時の腕に力がいつも以上に籠る。くそ。
「なんですかね、こんなに苦しいのに、こんなに美味いっておかしくないですか?」
焼きあがる肉をつつきながら、俺は率直に今の自分が置かれた状態と自分の感情についてミルコに訊いた。5年前にミルコは死んだ、とタキモトは言った。でも、まったく死んでないし、この上なく、リアルなオーラを放っている。アケミがミルコを鑑定したら、何色のオーラが放出されているというのだろう。
「でしょ、それ、最高級の神戸牛よ。食べたことなかったでしょ」
「めっちゃ高いんですよね?」
「そんなこと、気にしないでいいのよ。どんどん、食べて」
「いただきます」
失恋で落ち込んでいるというのに、箸が止まらなかった。この失恋と食欲との間に、いったい何があるというのだろう。心は悲しいのに、胃袋は欲望に屈している。肉汁のうまみが口腔に広がるたび、アカリが薄れていくのがわかって、耐えがたい背徳感にかられた。アカリの不在の悲しみが、肉の美味さで、薄められ濁されていくのが許せなくもあった。
「でも、ご夫婦なのに、普段会わないって、要は、すれ違い夫婦みたいな感じですか」
そういうことを聞きたかったわけじゃなかったが、ただ、食べているだけじゃ申し訳ないので、なんとなく間を繋ぐために言葉にしてみた。
「すれ違うっていうより、会わないようにしているの。でも、流行りのオープンマリッジでもない。うまく説明出来ないけれど、絶対に会わないようにして、お互い、暮らしている、ということでいい?」
「そんなこと出来るの?」
ミルコが、まあ、出来てるね、いまのところ、と頷いた。
「ぜんぜん、わかんないです。俺は御主人とも会っているし、二人を知っているから、こんがらがってしょうがない」
「謎を持ち続けることの方が面白いでしょ。人間は、なぜだろう、と思うことで、少し長く生き続けることが可能な生き物だから」
ミルコは食べずに、肉を頬張っている俺をただじっと見ていた。あまりに焼き肉が美味しいものだから、ミルコが真面目な話をしているのに、それはいつの間にか、どうでもよくなって、俺の舌は肉汁に唆されていった。
「じゃあ、お腹もいっぱいになったことだし、ちょっとうちにシャンパンでも飲みに来る?」
ミルコが笑いながら、言った。
次号につづく。
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辻仁成、個展情報。
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パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。
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1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。
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posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。