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連載小説「泡」 第二部「夢幻泡影」第2回  Posted on 2025/10/03 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第二部「夢幻泡影」第2回 

   地上に戻ってみると、陽はすっかり暮れており、街角のそこかしこに怪しいネオンが不気味な色を与えていた。まるで浦島太郎のような気分だった。いったいどれほどの時間が経過したというのか・・・。もっとも、あの仙人のような男が言うように、時間なんか、気にする必要はないのかもしれない。大切なのは生きている「今」だけだ。
   携帯にたくさんの着信が入っていた。すべてミルコからで、SMSにも「連絡ください」という短いメッセージが届いていたが、携帯の充電が切れそうだったので、一度家に戻ることにした。
   ところが、建物の前の建設予定地に、数台のオートバイが停車しており、ヒロトの仲間たちと思われる黒づくめの連中が、見張るというよりも、俺を威嚇する感じであからさまに屯していた。一人が木刀を隠し持っているのが見えた。くそ。家にはしばらく立ち寄らない方がよさそうだ。後戻りし、裏路地に再び潜りこむことになる。
   気になったので、ラーメン屋「黒点」の前を通ってみたが、ファサード全面にビニールシートがかけられてあった。野本のことが気になったが、もはや、今の俺に何も出来ない。俺は踵を返し、とりあえず、コンビニで充電をし、何も食べていなかったので、パンを買って齧ることにした。その間もずっと一定の間隔をあけて、携帯が鳴り続いていた。うるさいので、着信音を切った。ミルコという文字が躍っていた。確かに、確認しないとならないことがあった。でも、話してなんになる。仙人が言った「苦しんでいることも幻に過ぎない」という言葉が耳奥に蘇る。この世界に固執しなければ、面倒くさい出来事に関わらないで済む。アカリも今や俺にとっては恋人でも、味方でさえもない。

連載小説「泡」 第二部「夢幻泡影」第2回 

© hitonari tsuji



   この街の中心部をうろうろするのは危険なので、繁華街を避け、ヒロトたちが絶対来ないような、仲間内で「辺境」と呼ばれる地区のバーに潜り込んだ。オーナーとは顔見知りだった。危険な連中とのつながりが一切ないまっとうな人物だったので、とりあえず、目立たない席に潜み、そこで身体を休めることになる。今夜をどうするか、これからをどうするか、いろいろと考えないとならないことが山積みだった。『過去は捨てろ。それは後悔だ。未来や夢なんか持つな。それはただの期待に過ぎない』と仙人は語った。
   「久しぶりじゃないか」
   店主のヒイラギさんがグラスを拭きながら告げた。この人はラーメン屋の常連の一人で、すれ違うと挨拶を交わす程度の仲。まだ、アカリと付き合う前、2,3度、ここで野本と呑んだことがあった。
   「あれ、そういえば、黒点の火事、大丈夫だったの? なんかニュースになっていたよ。ここで呑んでても平気ってことだから、大したことはなかったのかい? 」
   俺は返答に困った。そうか、今日はそういう日だった。消防車の放水で出来た大きな水たまりの中に、黒焦げになった「黒点」が哀れに反射していた。
   「野本さん、どうしているの? それにしても大変なことになったね」
   「ヒイラギさん、ちょっと、今はその話、したくないです。すいません」
   「あ、ごめんなさい。ええと、何、呑む?」
    いつも美味しいラーメンを作ってくれるから、この一杯は、ぼくからのサービス、と言いながらヒイラギさんが白ワインをグラスに注いでぼくの前に置いた。
   ニュースになるくらいだから、少なくとも、この界隈から出ないとならないのはもはや決定だった。でも、どこ。どこへ行けばいい? 実家に戻って、ほとぼりが冷めるまで籠るのも一つの手だった。海が目の前だから、気も紛れる。それにしても、アカリを失ったことだけは、割り切れるものじゃない。あいつが今、何を考えているのか、気になってしょうがなかった。
   ふと、思い付き、俺は携帯の「探す」機能をチェックすることになる。すると、青い丸点がいつもあいつがうろうろしている繁華街のど真ん中で点灯していた。どうやら、ハラグチのクラブの周辺にいるようだ。俺がこんな目にあっているというのに、なんてやつだ。再び、怒りが込み上げてきた。しかし、不思議なことに、この「怒り」という感情は俺の魂の根っこのようなもので、怒りによって、俺は前に進む力を手に入れることも出来たし、怒りのせいで元気にもなった。くそ、と俺は小さく吐き捨てる。
   ふっと携帯画面が明るく輝いた。ミルコから再び電話がかかってきた。どうするべきか、悩んだが、俺は立ち上がると、店を出て、外で、電話を受けることになる。
   「あ、もしもし? しゅう君!」
   「うん」
   「今、どこにいるの?」

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© hitonari tsuji



   俺は少し考えた。俺がこうなってしまった原因に、もしかすると、ミルコが関係している可能性が十分にあった。今更、訊いてどうなることでもなかったが、でも、とりあえず訊いてみたかった。問い詰めたら、何かが変わるかもしれない。
   「もしかして、ミルコさん、アカリがご主人のモデルだったことにやきもちを焼き、俺に接近をした、んじゃないすかね?」
   「・・・」
   返事が戻ってこない。俺は容赦なく続けた。
   「タキモトさんがアカリをモデルにしていたことは知っていたわけですよね?タキモトが描いたアカリの絵、見たでしょ?アカリが出現するまで、タキモトはずっとあなたの裸婦像を描いてた。なのに、アカリが現れた途端、タキモトはアカリの裸の絵ばかり描くようになった。俺が衝撃を受けたように、ミルコさん、あなたはそれ以上に、アカリの裸婦像に嫉妬したんじゃないですか?タキモトは、あなたじゃなく、アカリを描くことを生き甲斐にしはじめた。で、アカリが何者か、あなた、調べたんでしょう?」
   ミルコからかかって来た電話だったが、ミルコは息を潜めて黙っている。俺はこれまでの流れを頭の中で整理しながら、続けた。
   「これは愚かな俺の推測に過ぎませんが、あの日、ミルコさんはアカリの後を尾行し、俺のアパートまでやって来た。そして、俺とアカリが激しく喧嘩しているところに遭遇した。家を飛び出した俺の後をつけた理由に関してはよく分かりませんが、おそらく、俺を使って、アカリとタキモトを引き離そうと思いついたんですよね? 俺をあなたたちのマンションに無理やり宿泊させたのも、翌日にタキモトがやって来ることを計算にいれた上での、すべて、復讐へと導く導線の一つ。だから、あのバーにふらっと入った感じを装って、哀れな俺に近づき、その後の流れへと繋がる、ってことですね? つまり、タキモトに復讐したくて、タキモトからアカリを引き離すべく、俺をけしかけた?」
   「・・・」
   「俺はバカだから、よく分からないけれど、まんまとその策にひっかかって、半グレたちをボコボコにしてしまった。その報復で、黒点が燃やされた。それで想像以上の展開になって、驚いたので、俺に電話をかけてきた・・・。きっと、そういうことじゃないか、と今推測していますが・・・。そうだとしたら、全部の辻褄があうでしょ? 」
   感情を押し殺して、俺は言うべきことを全部言葉に込め、ミルコを問い詰めた。長い沈黙だった。でも、俺はその沈黙から、この推測が正しい可能性を悟り始めていた。狭い路地には、人の気配がなかった。俺の声だけが、静かに、打ち寄せては返す波のごとく静かに反響していた。
   「ごめんなさい。謝らないといけないわね。でも、残念ながら、あなたの推理は間違っています」

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   「残念ながら? 間違えている? じゃあ、なんなんだよ!」
   ぼくは不意に心の均整を保つことが出来なくなり、ミルコを怒鳴りつけてしまった。ミルコの吐き出す呼気が耳元を擽る。
   「まず、タキモトはこの世に、生きていません。そのことは前にも言ったと思います。そして、私も、死んでいるのか、生きているのか、分からない存在だということも言いました。これね、信じられないかもしれないけれど、本当なのよ」
   ぼくは、思わず、噴き出してしまった。何を今更、と携帯を握る手が震えた。この嘘つき女! お前らは幽霊か! 幽霊がラーメン屋を全焼させたのか!? 人を馬鹿にするのも、ほどほどにしろ。喉元まで、言葉が出かかったが、ぐっと堪えて、ミルコの次の言葉を待った。
   「ちゃんと証明したいから、これから、ここに来れます?」
   「これから?」
   「そうね、今から一時間後、それ以降でもいいけれど、来てください。今夜はずっとここにいるので、あなた次第。1階エントランスのインターフォンで、タキモト、を探し、ボタンを押してください。来ればわかるわ。あなたの疑問は解消されます」
   俺は悩んだ。疑問が解消される? 
   「タキモトさんが死んでいること、ミルコさんが死んでいるか、生きているか分からない存在だということが、分かるということですね? それは、アカリが俺を騙したことの理由にもつながる?」
   「そうね、でも、少なくとも、アカリさんはあなたを裏切ってないことは分かると思います。でも、ここに来ないとそれは分からないのよ」 

        次号につづく。(続きは明日だと思います)

  
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辻仁成、個展情報。

パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。

1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。

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辻仁成 Art Gallery

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。