連載小説
連載小説「泡」 第一部「地上」第17回 Posted on 2025/09/29 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第一部「地上」第17回
「しゅうちゃん」
驚いたのは俺だけじゃなかった。顎を引いて目を見開き、アカリも明らかに驚いた顔をしてそこに立ち竦んでいた。アカリが来ることを聞かされていた俺でさえ心臓が止まりそうになったのだから、何も知らずにやってきたアカリの驚きはその比較にならない。俺だと理解出来ても、なぜ、ここに俺がいるのか、まったく、分からないのだから、見開いた目は瞬きもできず、放心状態だった。少しの間があき、ようやく、・・・しゅうちゃん、と声が口元から漏れた。
「なんで・・・、どうして・・・?」
アカリは、俺の後ろに立つ、タキモトを素早く見て、それからまた俺を見返し、
「どういうこと?」
と困惑を繰り返した。
「君たち知り合い?」
背後に立つタキモトも驚いている。あらゆる事態が同時に俺に襲い掛かって来たので、何をどう説明していいのかもわからず、俺はただ、アカリの綺麗にメイクされた顔を見るしかなかった。
「こういうアルバイトしてたんだ」
なのに、自分の口をついて出たアカリを責める言葉にさらに驚かされてしまう。頭の中に、全裸で足を開いているアカリの絵が焼き付いてしまったせいもある。長いこと、アカリは、俺に隠れて、ヌードモデルをやっていたことになる。タキモトだけじゃなく、見知らぬ他の人の前でも裸になっているのだろう、心がささくれだって仕方ない。自分だって昨晩のミルコとの添い寝のことがあるのに、問い詰めようとしている見苦しい自分に恥じ入りながらも、そのことをはっきりさせたいという気持ちが心をどうしようもなく揺さぶるのだった。
「なになに、君たちいったい、どういうことなの、どういう関係?」
タキモトが割り込んできた。お前が説明しろよ、という感じで、俺はアカリを睨めつけてしまう。
「あの、元彼です」
モトカレという響きに、狼狽えてしまった。元カレが、分かれた女性に仕事のことで文句を言っているのか。未練がましい。俺が愛していた時期にも、アカリはタキモトの前で裸になり、足を開いて見せていたことになる。いいや、これはきっと高尚な芸術なんだ、と自分に言い聞かせてみるが、怒りが笑いへと変化した。怒りを通り越し、俺は、急に笑い出してしまう。アカリがたじろぎ、少し後ずさりした。
「芸術がなんだよ。芸術だったら、付き合っている男がいるのに、股を開いていいのか、てめー」
思わず、素の自分が出てしまい、叫んだ後、この瀟洒な建物の中で輩のようなふるまいをしている自分に悲しくなった。俺は、アカリを押しのけ、そこを離れた。大切なものを喪失した気分だった。自分が何をしでかすかわからないので、ともかく、ここから去るしかない、と思った。エレベーターを待っていると間が持たないので、ボタンは押したが、待ちきれず、階段を使って下界まで駆け降りることになる。その方が、怒りを緩和させるのにも、いいに決まっている。俺は高層マンションの最上階から、下の階を目指して転がるような勢いで駆け降りた。くそ、と時々、叫び声を張り上げながら・・・。
© hitonari tsuji
いったい、どうなってんだ。俺が何をしたというのだ。俺は一生懸命働いて、そうだ、いつか、アカリと二人でラーメン屋をやるつもりでお金を貯めていたというのに、その夢も木っ端みじんに消え去り、もう、どうでもよくなった。ミルコはなんで、こんな純情な俺を、自分の復讐のために利用したのか。もう、戻りたくても戻れない。アカリもなんであんな淫らなアルバイトを、俺という彼氏がいたにも関わらず・・・。くそ野郎。俺は、非常階段の中で、力の限り叫び散らしていた。過酷であまりに長い非常階段だった。
体力には自信があったが、地上階に到着する頃には、足が鉄のように重くなり、思うように動かなくなった。地上階では清掃作業が行われていたので、鉄扉がドアストッパーで固定され、駐車場入り口に向けて開いていた。飛び出してきた俺に驚いた清掃員が俺を目で追いかけた。くそ、バカにしやがって、ともう一度毒づき、俺は高層ビルの地上にある車寄せを突っ切ろうとした。すると、
「しゅうちゃん」
と声が一帯に響き渡った。
振り返ると、アカリが立っていた。エレベーターで降りてきたので、俺よりも早く下に着いていたというわけだ。
「しゅうちゃん、聞いてほしいことがあるの。タキモトさんには、了解を貰ったから、よかったら、ちょっと話さない?」
俺は肩で息をしながら、一瞬悩み、ここは冷静になれ、と自分を戒めた。この問題は怒鳴り散らして解決することじゃない。何が起きているのか分からないが、今は、アカリの意見をちゃんと聞かないとならない、俺は俺にそう言い聞かせるのだった。
自分のテリトリーのようなこの場末の街にも、いまだ知らない場所や世界がいくらでもあった。ウインドーガラス越しに広がる世界をアカリと並んで眺めながら、気持ちが落ち着くのを待った。通りを挟んだ反対側にくすんだ色のビルが一列に並んで聳えており、それはまるで国境の壁のよう。夜の町だからであろう、まだ営業していない店が多く、シャッターは下ろされ、放置された看板も火は灯っておらず、歩いている人たちも夜の派手な連中とは異なる昼間の一般の人間たちだった。俺たちは冷めはじめたコーヒーを前に、けれども、何からどう切り出していいのかわからず、時間がばかりが過ぎていくのを見送り続けた。自動車のエンジン音が遠ざかった直後、アカリがようやく口火を切った。
「タキモトさんとはどういう知り合いなの?」
「知り合いの知り合い。・・・それより、お前、いつから、タキモトのところでモデルやってるの?」
「長いよ。もう、1年以上。しゅうちゃんと知り合うずっと前から」
アカリが何か言えば、たぶん、それだけ俺が苦しむのは分かっていたが、1年以上前、という言葉は俺を驚かせるに十分な期間で、再び、頭をがつんと殴られたような痛みが駆け抜けた。言葉が続かない。それ以上知るのが怖いのかもしれない。俺は、とりあえず、コーヒーを水でも飲むみたいに、口に含んだ。酸味が強くて、まずい。くそ。
© hitonari tsuji
「しゅうちゃんは、わたしのこと、何知ってたんだろうね」
アカリは自分に言い聞かせるような小さな声で、告げた。俺たちが知り合ったのは半年前、どっかのクラブだったか、パーティ会場で・・・。そのあと、アカリがうちに居つくようになり、交際が始まった。俺は、あいつの何を知っているのだ、と自問した。仕事のこともよく知らない。俺と付き合う前のことは知らない。彼女の家族のこと、どういう幼少期を過ごしたかも知らなかった。裸になって、絵のモデルをやっていることも知らなかったし、他にも何かあるだろうが、それはもはや聞きたくもない。
「確かに、何にも知らないな」
思わず、苦笑してしまう。アカリがため息を漏らした。
「そうなの、しゅうちゃんはわたしのことをたぶん、全然、知らない。でも、アカリはそれがよかった。わたしの生まれや育ちは実はあまり言いたくなかった。自慢できるような家族じゃなくて、15の時に家を出て、友だちの家を転々として、18歳から今の事務所に所属して、本当はもっと華やかな世界に憧れていたんだけれど、ようやくスカウトされたのが今の変な事務所で、いろいろとあって、自由は許されなくて、籠の中の鳥みたいになって・・・。それに、モデルっていっても、ぴんきりで、タキモトさんは紳士だから、凄く仕事しやすいけれど、そうじゃない人もいて、一応モデルだから、絵のモデルだけじゃなく、写真撮影させられたり、危険なこともあって、もちろん、事務所が守ってはくれるので、しゅうちゃんが心配するような変なことにはならないんだけれど、誘惑は多くて、ぎりぎりは要求されて、・・・。でも、やめたいけれど、事情があって、やめられなくて、・・・そんな中、しゅうちゃんに出会って、解放されたし、楽しかったし、嫌なこと忘れられたし、正直、救われたというのはあった」
くそ、と俺は心の中で、言った。握りしめたこぶしは汗をかいている。俺が何か言う番だったが、言葉は慎重に選ばないとならない。アカリには何か事情があるようだし、この子を追い込むのは俺の役目じゃない。大事なことは、俺はアカリを愛せるか、ということだった。すべてを知っても、この子を愛せるのか、と俺は自問を繰り返して、手に力が籠り続けた。
「アケミが言っていたけれど、お前には、心酔する危ない男がいるって。それって、タキモトのこと?」
「誰だろ? 思えば危ない人ばっかりだから、アケミが誰のことを指して言ってるのか分かんないけど、タキモトさんは、ちっとも危なくないよ。あの人は、わたしに指一本、触れたことがない。わたし、子供の頃から嘘をついて生きてきたけれど、それは身を守るための自衛だった。タキモトさんは、わたしに指一本触れないけれど、生きる意味を教えてくれたりはする」
「生きる意味? なんて?」
「この世は幻だから、苦しむことも幻だって」
力が抜けていく。結んでいた手を開き、一度、汗をズボンで拭わなければならなかった。くそ。
「あの、モデルってさ、コールガールみたいな仕事なんじゃないの?」
「失礼じゃない?」
アカリの目元に力が籠った。
「お前、子供の頃から嘘つくって、今、言ったよな。妊娠したって、言ったし、3人と関係した、とも言ったよな、あれは嘘だった、とも言った。じゃあ、何が真実なの? 全部、嘘かよ」
「しゅうちゃん、やっぱり、別れて正解だったかもね。そんなこと一生尋問されるなら、わたし、無理だわ。もう、いいんじゃない。終わったんだから、いい思い出だけ持って生きていこうよ。狭い街だから、すれ違うこともあるでしょう、その時、笑顔で会いたいじゃん」
思わず、涙腺が切断され、自分のものとは思えない温かい涙がこぼれ出てしまった。しかも、自分でもびっくりするくらい、大粒の涙で、それは頬を伝い、膝の上で握り締めている自分のこぶしの上に、ぽた、ぽた、と落ちた。
くそ、涙が溢れ出て、止まらない・・・。
「しゅうちゃん・・・」
「お前、ずるい」
「しゅうちゃん、泣かないで」
「こんなに好きなのに、・・・こんなにボロボロにさせられて」
「・・・ごめんね」
「まだ、好きな自分が苦しいよ」
俺は立ち上がり、そのまま、店をおとなしく出ることになる。アカリはもう、追いかけては来なかった。涙が止まらない。俺は前だけを睨めつけ、ふりかえるな、ふりかえるな、二度とふりかえるな、と心の中で自分に言い聞かせるのだった。
次号につづく。(明日です)
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辻仁成、個展情報。
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パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。
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1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。