連載小説
連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第7回 Posted on 2025/10/10 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第二部「夢幻泡影」第7回
俺はYouTubeで一度使い方を学んでから、キッチンにある見たこともない大きなイタリア製のコーヒーマシーンを作動させ、エスプレッソを淹れた。この街を一望できる広いリビングルームの窓際にある一人掛け用のソファに寝転んで、カップに口を付けた。地平線の先までコンクリートの大地が続いている。ところどころに緑地公園が顔を出しているものの、基本は、降り注ぐ陽の光を反射させた灰色と銀色が混ざった世界だった。眺望は素晴らしかったが、それに対比するかのごとく、俺の頭の中は混沌として、砂嵐のような状態だった。俺は目を細め、これからどうするべきか、考えることになる。
第三の女は、『自分の身の振りが見えるまでここでひとまず落ち着いて』と俺を説得し続けた。この人の本当の人格が見えないこともあり、怖くもあった。しかし、他に手が無いこともあり、今地上に降りるのは確かに危険で、悩んだ挙句、最後はもう投げやりになって、俺はその提案を受け入れ、少しのあいだ居残ることになる。そして、女は『コンビニとかに行くことが出来るように』と合鍵と建物の出口を通過するための暗証番号のメモを残していった。
「もし、ここに戻る必要がないと思ったら、この鍵をタキモトと書かれたエントランスにあるポストの中に放り込んでおいてもらえればいいわ」
女はそうつけ足した。それは俺に対する信用の証のようでもあった。女は出て行き、俺は、指定されたベッドではなく、とりあえず、ソファで眠った。朝、勝手知ったるこのマンションのリビングルームで目を覚ました時、能天気な眩しい光に瞼を押さえつけられながら、最も長いため息がこぼれ出た。この一週間ほどの間に起こった様々なことが思い出されるのだけれど、あまりに目の前にある明るい世界がそれまでの暮らしと違い過ぎることもあり、燃えた「黒点」や、叩きのめしたヒロトのことや、家の前で俺を待ち伏せていた半グレたちの残像が脳裏にイメージをうまく結ばないのだった。
© hitonari tsuji
どうしたらいいのか、分からなかった。じゃあ、何らかの方向性や出口が見えるようになるまで、ここでこうやって、ごろごろしていてもいいんじゃないか、と思うようになっていく。下界に降りてその辺をうろうろするのは、確かに危険過ぎる。実家に戻るにしても、もう少し落ち着くのを待った方がいい。自分のアパートをどうするべきか、野本にいつ連絡を入れるべきか、そして、アカリのことまで、気になった。『アカリさんとはいつかここで会えばいい』とあの女は言い残して出て行った。俺は待つしかなかった。とにかく、何かを待つしかない。世の中が動き出す瞬間を、ここで、じっと待とう・・・。
携帯を充電し、「探す」モードにして、アカリの生存確認をした。青い丸が今日も繁華街の中を移動したり、どこかで静止したり、を繰り返した。それをずっと、日がな一日眺め続けた。アカリがどこにいるのか知ることが、今の俺の唯一の仕事となった。
すると昼過ぎ、その青い丸が、不意に繁華街方面から反れて、このマンションがある西の地域へと進路をとった。もしかすると、ここに来るのかもしれない。色めきだった俺は急いでバルコニーに飛び出し、鉄の欄干から身を乗り出すようにして下界を覗き込んだ。けれども幾ら待ちわびても放射線状に走る路地にアカリの姿を発見することは出来なかった。東西南北を確認してから、携帯を羅針盤のように動かし、あいつがどこらへんを歩いているのか、正確に確かめようとした。でも、待っても現れなかったし、何も起こらなかった。無人島にいて救出を待つ遭難者のようだ。水平線の先を行く船は、どんどん、遠ざかっていく。そのうち、青い丸は、再び繁華街の方向へと戻ってしまった。救援を待っていた俺は落胆し、眩い太陽を苦々しく見上げるしかなかった。
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俺の持ち物は携帯と家の鍵とクレジットカード1枚だった。これが俺の持ち物のすべて。カードは携帯ケースに挟まっている。現金は持ってない。それらを風呂場の洗面台の横に置いてからシャワーを浴びた。着替えがないので、洗濯機で服を洗っているあいだ、タキモトかミルコかあの女のガウンを拝借して、ふかふかのスリッパに履き替え、リビングルームをうろうろとした。そうしているあいだも、ずっとあの第三の女が言った様々なことが脳裏を駆け巡っていくのだった。
『あなたが激しく混乱をするのは分かりますよ。でも、非常にわかりにくいかもしれませんが、一つの身体、一つの脳、に3つの心が同居しているわけですから、ある瞬間に、スイッチが入り、主体が入れ替わることも実際あります。強制終了のようなことが、その都度、それぞれの中で、起こるわけです。そうやって三人は今まで生きてきたのですから、長い年月・・・』
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冷蔵庫を漁り、ハムとかチーズなんかを取り出して、ダイニングのテーブルに腰掛け、口に放り込んだ。缶ビールも舶来のものだった。プルトップを引き抜き、結構苦めのビールを胃に流し込んだ。まるでリゾートホテルのようじゃないか。思わず、苦笑いが浮かぶ。しかし、次の瞬間、自分が置かれた事態を思い返し、戦慄を覚える。くそ、なにやってんだ、俺はここで・・・。
他にすることもなく、胃が落ち着いたら、再び諜報活動に戻る。携帯の「探す」機能でアカリの動きを追跡した。青い丸は繁華街の一点から動く気配がない。アカリは『主にアイドルっぽい子の写真撮影専用モデルを扱うタレント事務所』に所属していると、第三の女が言った。繁華街にあるあの古いビルの中にその事務所があるに違いない。アカリはそこで次の仕事が入るまで待機しているのかもしれない。
俺はハムを奥歯で噛みながら、最初にアカリと大喧嘩した夜のことを思い出していた。あれから、何週間も、何か月間も、ものすごい時間が経過したように感じられる。ジェットコースターのような急降下と急上昇の連続だったが、「妊娠したかもしれないの」と告げられたのは、およそ一週間前のこと、いや、正確には8日前だ。俺は自分に何が起こったのか、時系列を整理してみる。僅か、8日。たいした時間が流れていないというのに、わずか一週間程度で、俺の人生は180度変わってしまった。アカリとは別れることになり、正体不明のミルコやタキモトが出現し俺の人生をひっかきまわし、半グレのヒロトを病院送りにし、そのせいで、何年も働いてきた俺のバイト先は燃やされ、俺はヒロトをかわいがる地回りのニシキにまで付け狙われている。あげくに第三の女が出てきて、身体と心は一つだけれど、それを3人がシェアしているなどと呆れるような話を聞かされた。つまり、先週は幸福の絶頂の中にいたのに、今は激しい混乱の渦中にあった。アカリと付き合いだして4か月が過ぎており、その間、俺は生きる希望の中にいた。自分の店を持つという夢の実現に向け、バイトにも精を出していた。でも、今日、俺はもはやすべてを失った不幸な男でしかなかった。地下街の片隅で出会った「仙人」が俺に告げた言葉が思い出される。
『すべては今この瞬間の中にある。過去とか未来に縛られているのは愚か者だ。過去は捨てろ。それは後悔だ。未来や夢なんか持つな。それはただの期待に過ぎない。逆に、今を切に生きろ。わかるか、お前に永遠があるとするなら、それは今にこそある』
この言葉が、少なくとも今の俺の希望でもあった。過去は捨てろ、それは後悔だ、と俺は俺に言い聞かせる。未来や夢なんか持つな、それはただの期待だ、と俺は俺を戒めた。今を切に生きろ、しゅう。そうだ、その通りだ。俺に永遠があるとするなら、それは今にこそある・・・。
廊下の途中にあるトレーニングルームに行き、シットアップベンチや筋トレマシンを使って、運動をした。シットアップベンチを使って腹筋を、筋トレマシンで腕の筋肉を鍛えた。「この野郎、くそ野郎」と声を出しながら、来るべき日のために、筋力をつけることに集中した。身を守るために必要なものは俺自身の筋肉。頼れるものがあるとすれば、それは筋肉だけだった。そして、すべてを失った今の俺に出来ることはこの筋トレということになる。くそ野郎。俺は怒りをマシンにぶつけ続けた。そうすることで、煮えたぎる気持ちがいくらか、楽になった。運動の後、シャワーを浴び、もう一本ビールを飲んでから、ソファで昼寝をした。何も考えちゃいけない。考えそうになると、仙人の言葉を思い出し、心の中で反芻した。過去は捨てろ。それは後悔だ。未来や夢なんか持つな。それはただの期待に過ぎない。逆に、今を切に生きろ・・・。
玄関の呼鈴が鳴った。俺はガウン姿だったが、構うことはなかった。誰だか知らないが、或いは、あの女が俺のために食料を届けに来たのであろう。玄関に行き、ドアを開けると、そこにアカリが立っていた。両手に大量の食料が詰まったコンビニの袋を持って・・・。
次号につづく。(パリ個展が月曜からなので、次号がいつか、ちょっと不明です。でも、頑張って続きを書きますよ)
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辻仁成、個展情報。
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パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。
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1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。