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連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第5回  Posted on 2025/10/08 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」  

第二部「夢幻泡影」第5回 

   第三の女は一度息を深く吸い込み、それから自分を落ち着かせるような仕草をとってから、今度はゆっくりとそれを吐き出した。俺はその女のただならぬ迫力に引き込まれ、目を凝らし、耳を傾け続けることになる。
   「わたしは自分が勤めるデパートで高級メイクセットをミルコのために買い揃えた。そして、そうね、普段自分じゃ絶対に買わないようなブランドの服を彼女にあてがい、ミルコを満足させ、同時にミルコを楽しむようになった」
   不意に出現した女はそう告げると、試すような上目づかいで、俺の目の中心を覗き込んできた。俺は警戒しながらも、次の言葉を待つことになる。
   「ミルコ核と呼んでいる。原子核の核のこと」
   「カク?」
   俺には彼女の話は難し過ぎた。聞いているというよりも、もはや、読経のよう・・・。
   「わたしがミルコ核に憑依されると、心も精神もミルコになって、苦痛から解放された。ミルコは自由で破天荒な女だったから、現実の暗いわたしとは異なり、生き生きしていた。ゲイバーに行ったり、地下クラブで踊ったり、それまでの自分には想像もできない行動をとるようになる。ミルコはどんどん個性が出て、華やかになり、強い信念を持つようになって、わたしのはずなのに、ミルコに変身をした時は、大胆になって、自分でも驚くような発想を持ち、信じられない行動に出ることになる。見ず知らずの素敵な紳士と一夜だけの関係を持ったことさえあるのよ。そんなこと、素のわたしには、あり得ないし、絶対に無理なこと。でも、無敵のミルコなら出来た。ある意味、抑圧された苦情係のわたしを内側から解放させた救世主のような存在・・・」
   俺は語り続ける女の少し上へと視線を移してみた。そこにマリオネットのような彼女を操る糸が見えた気がした。この人は何に操られているのだろう・・・。

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第5回 

© hitonari tsuji



   「そしたら、ある日、ある朝かな、そうね、朝だったわ。今度は突然、やあ、という感じで、タキモトが出現したの。鏡の中のわたしはわたしに向かって、もう一人、面白い人物がいるけれど、って語りだした。ミルコとは性格も異なっていて、しかも、驚くべきことに男性だった。タキモト核の出現・・・。今度は自分が勤めるデパートの男性衣服売り場に行き、男性の服、下着、靴下なんかを、そして、ウイッグまでも買わないとならなくなる。不思議なのは、タキモトに憑依されると、わたしは男性になることが出来た。もともと背も高かったし、声も低くて掠れていたから、男性的な素地はあったのかもしれない。タキモトは黙々と絵に向かった。彼のために画材を大量に買うことになる。ということで、まるで二人の人間がわたしの肉体と精神を奪い合うような感じになっていく。でも、なんとなく、悪くなかった、というか、意外にも受け止めることが出来た。元のわたしなんか、何の面白みもないし、生きていることを投げていたから、タキモトやミルコに変身することで、現実から逃避出来たし、実際、幸福だった。そして彼らがわたしの苦悩を理解してくれるから、逆に、そのおかげで自分の存在理由を持つことも出来た。タキモトは、なんていうのかしら、人の話を聞くのが上手で、でも、とってもいいことを言うのよ。さりげなく、あなたは一生懸命頑張って来た、って認めてくれたりする。苦情なんか聞く必要はもうない、と断言してくれた。そもそも、タキモトもミルコも、もとは一つだから、お互いを尊重しあうようになり、ついに「わたし」を通して、愛しあうようになる。なので、わたしをあいだに挟んで、夫婦として、ある時から、出会うことのない夫婦として存在するようになったの。タキモトは絵を描き、タキモトの絵を欧州の美術商に売り込んだのは行動力のあるミルコ。精神医学的には、複数人格と呼ばれる部類に属するのかもしれないけれど、そういうものかどうか、検査したことがないからわからないけれど、でも、明らかにわたしではない、男性格と女性格がわたしの中で確立され、一つの肉体を3者で共有することになった。ここで大事なことがあって、分かりにくいかもしれないけれど、タキモトにはタキモトの考え方や人格があり、ミルコにはミルコの人格があるということ。二人はそれぞれ、携帯を持っていて、メッセージの伝達、意思交換は、LINEなどを通して行われてきた。面白いでしょ? 同じ脳を共有しているのに、棲み分けがあるの。わたしはその二人に振り回され、あまり、表に出ていかないようになっていく。贋作の仕事が軌道にのると、それまで暮らしていた小さなマンションは物置として残し、ミルコが見つけたここに3人で越してきた。こういうこと、しゅうさん、なかなか理解できないわよね? 」
   この話を理解出来る人間がいるだろうか、精神科医でも難しいかもしれない。でも、タキモトもミルコも、確かに俺の中に存在している。この目の前の名前すら知らない女性が、不憫だったが、彼女もタキモトとミルコのおかげで、地獄から這い上がることが出来たわけだから、どこにも問題はない。誰も傷ついていないし、犯罪をおかしているわけでもないし、それでいいじゃないか、と俺は思った。

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第5回 

© hitonari tsuji



   「わたし、美大を出てるの。だから、当然、タキモトにも絵の素養があってね、たぶん、画家になるのがわたしの子供の頃の夢だったから、それをタキモトが受け継いだってことだと思います。タキモトは、有名な画家が描いた絵を真似、この世界に忠実に再現するようになる。いや、忠実じゃなくて、こういう絵をその作家がもしかしたら描いていたに違いないという架空の作品を創作しだした。そう、それが贋作家の始まりでした。偽物を完全に本物にする仕事は、お金のためというより、当初は自分たちをこの世界に固着させるための行為でもあった。わたしたちをこの世界に生かす希望になった。何年かやっているうち、作品は本物を超えるほどの出来栄えになる。もっとも欧州で売ることが多いから、日本の画家の贋作がメインなのよ。最近、ピカソなんかも描きだしたけれど、どうでしょうね、ピカソは作品数が多いから、攻めやすいとは思うけれど、スリリングね。欧州のエージェントを通して、日本で売れないか、いま画策中なの。ミルコが売り込み、マネージメントをするようになり、高額な値段で取引されるようになって、タキモト・アートギャラリーが設立された。さらに驚くべきことに、タキモトが描いた藤田嗣治という作家の猫の絵はフランスの国立美術館に所蔵されています。細かい話は省くけれど、つまり、この二人はわたしの分身でもあり、この二人は、一生出会うことのない夫婦でもあるわけ。・・・ということ、厄介な話だったけれど、わかって貰えましたか?」
   「あ、いや、・・・難し過ぎて、ちょっと・・・」

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© hitonari tsuji



   俺とその女はお互いの目を覗き合った。相変わらず誰なのかわからない女、でも、きっと根本は、ミルコであり、タキモトであるはずの女が、そうね、そうよね、と言ってから、申し訳なさそうに頷いてみせた。
   「合成で夫婦の記念写真なんかも作った。ほら、ドアの横に飾ってあるやつね。最新の技術を駆使して作ってもらったんだけど、何か、物足りないのよね。だから、タキモトとミルコを知る人間が必要になった。タキモトとミルコを知っている人間が増えることで、この世界で生きる理由を手に入れることが出来る。最初の頃、タキモトは贋作作業の合間にミルコをイメージして彼女の肖像画を描いてたんだけれど、出会わない二人だからさ、リアルさが足らず、うまく描けない、と言い出した。やはり、目の前に座る実際のモデルが必要になった。誰でもいいというわけじゃないでしょ?調べたら、割と近くに、主にアイドルっぽい子の写真撮影専用モデルを扱うタレント事務所があって、ミルコが出かけていき、面接をし、アカリを選んだのよ。タキモトのために、ミルコが選んだ。だから、あなたが心配をするような問題は、少なくともここでは起きてない」
   「それは何の話ですか?・・・アカリが俺を裏切ってない、とあなたが断言したこと?」
   「アカリさんとの間に、性的な関係はない、と言わなかったっけ?タキモトの身体は生物学的には女性だから・・・。それから、もう一つ言えば、彼女は素晴らしいモデルで、プロとしての意識もそれなりに高い。タキモトも次第にアカリさんが生まれ持つ無邪気な天性を描くことに喜びを覚えるようになる。それに、アカリさんもタキモトの描く絵を絶賛した。タキモトは喜んだ。アカリさんも、どんどん、自分からポーズをとるようになっていった。贋作じゃない、本物の作品が生まれるようになる」
   女の口許は緩み、明らかに喜びを表している。壮大な一人芝居に俺は振り回されているのか、思わず嘆息が溢れ出てしまう。
   「じゃあ、それでよかったじゃないですか。アカリで十分なのに、なんで、ぼくにまで近づいてきたんですか」
   「そうね、そこよね、問題の根本は・・・」
   女は黙って、俯いてしまった。少しだけ、二人の間に沈黙が起きる。気持ちがまとまらないのか、それとも言いにくいことがあるのか、数分、考え込んでしまった。そして、それなりの沈黙の後、
   「タキモトがね、暴走をしだしたのよ」
   と言った。

 次号につづく。(個展の準備におわれていますが、たぶん明日)

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© hitonari tsuji



連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第5回 

辻仁成、個展情報。

パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。

1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。

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辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学
TSUJI VILLE



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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。