連載小説
連載小説「泡」 第二部「夢幻泡影」第9回 Posted on 2025/10/15 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第二部「夢幻泡影」第9回
「アカリ・・・」
俺は何か言おうとしたが、適切な言葉が思い浮かばず、口を噤んでしまう。アカリが紡いだ痛々しい言葉の連なりは、はじめて知ったアカリの生い立ちであった。でも、きっと、こんなバカな俺にでも、その言葉の端々から、どんなに辛い子供時代だったのか、を想像することは出来た。それにしても、俺もなんでアカリの人生について今まで聞こうとしなかったのだろう。アカリが言う通り、俺はアカリのどこを見ていたというのだ。激しい後悔に苛まれた。力が抜けていく。独りぼっちで、施設の中庭に立つアカリの絵が見えた。そういう施設がどこにあって、どういう環境で、どういう子供たちが集められて、どういう人たちがその子たちを支えているのか、俺にはまったく見当もつかない。俺には無縁だったし、そんなのドラマや映画の中だけの世界だと思っていたし、正直、他に施設で育った知り合いもいなかったのだから・・・。
アカリは俺に「20歳」と言ったが、もしかしたら、19歳かもしれないし、21歳かもしれない・・・。親に恵まれ、海を見て育った、少なくとも明るい漁村育ちの自分とは、まったく異なる世界で生き抜いてきた彼女が、自分を守るために嘘をついたとして、それを俺に攻める権利があるのかよ、と思うとなんだか腹が立って泣きそうになった。
俺は立ち上がり、キッチンに向かう。豪華なシステムキッチンは壁から少し離れたオープン対面型で、周囲にストゥール椅子が2,3脚置かれており、中心にIHの調理器具、天井にレンジフードが取り付けられてあった。引き出しを押して開けてみると、様々な種類のフライパン、鍋などが収納されていた。その中から手頃な鍋を一つ選んで取り出し、水を入れ、IHの上に置いて熱した。
「しゅうちゃん、何してるの?」
「とりあえず、腹減ったろ、お前の好物の明太子パスタ作ってみる」
「ええ、マジ、嬉しい。そうかな、と思って紫蘇も買っといたよ」
© hitonari tsuji
アカリは笑顔に戻り、無邪気に言った。この子のいいところは、この天真爛漫なところなんだ、と思った。俺は眩しいアカリから視線を逸らし、準備に勤しんだ。
使い方もよく分からないかなり高級なシステムキッチンだったが、ラーメン屋の店長でもあるわけだから、まもなく、だいたいの扱い方が取得することが出来た。包丁やボウルを引っ張り出し、まな板の上で明太子の皮を丁寧に剥がした。紫蘇を微塵切りにし、冷蔵庫からクリームやマヨネーズを取り出し、必要な具材をボウルの中へと次々突っ込んでいった。頭の中は麻痺したままだったが、こうやって料理に向かっていると多少は落ち着きを取り戻すことが出来た。具材の入ったボウルの中の混沌を、フォークを使って、さらにぐるぐるとかき回し、均一に整えていった。目の前のストゥールに腰掛けているアカリは、付き合っていた頃のアカリのままだった。無邪気な奴でよかった。深刻な場面でも、すぐにご機嫌になるところがこの子のいいところ。笑顔はやっぱり、かわいい。いろいろな思いが入り交じり、ため息がこぼれる。
「何グラム食う?」
「しゅうちゃんは200、わたしは80かな」
「オッケー。サラダ、どうする?」
「食べる。しゅうちゃんのいつものサラダがいい。材料買っといたよ」
「オッケー」
幸せな頃のいつもの会話だった。俺のサラダは、アンチョビとニンニクを潰し、ケッパーと松の実を放り込んで、サラダ菜を入れ、オリーブオイルで合えただけのシンプルなものだったが、アカリの好物だった。新鮮なマッシュルームをスライスして載せ、最後に粉チーズを回し掛け、完成となる。
「なんか、昔に戻ったみたい。幸せ」
© hitonari tsuji
アカリが無邪気に言い放つ。俺は一層複雑な気持ちに包まれたが、今は余計なことは考えないことにした。茹で上がったパスタを、バター、塩昆布、オリーブオイル、マヨネーズ、明太子、などが混在するボウルにいれ、高速で混ぜ合わせた。完成した明太子パスタを皿に盛り、上から炒り胡麻、そして、刻んだ紫蘇と海苔を大量に載せた。
「うーん、美味しそう」
「何呑む?」
「ビール!」
俺たちは皿と飲み物をテーブルに運んで、並んで食べることになった。いつもの味だったが、なぜか、ちょっと違和感があった。心なし、濃い目の味付けになっている。同じ分量で作ったのに、なんでだ?いつもと違う味なのは、もしかすると、二人の関係がほんの少し変異しているからかもしれない。
「美味しいな」
「うん、しゅうちゃんの明太子パスタが世界で一番好き。超美味しい」
アカリが奥さんになったら、二人でラーメン屋をやるのがマジで俺の夢だった。そして、仕事の合間に、ラーメン屋だけれど、賄いは明太子パスタにするつもりだった。もう、その夢は泡と消えた。弾けて飛んだ夢のような泡だった。
食後、俺たちはソファに並んで座り、俺が淹れたイタリアンコーヒーを飲んだ。タキモトのことや、ミルコのことはもうどうでもよかった。ほんの一瞬、ここにあの日の幸せがある。今はこれを大切にしたい。
大きなテレビ画面でネットフリックスの映画とか、音楽ライブとか、アカリが喜ぶものを選んで、見た。なんで今、アカリが横にいるのか、わからなかった。でも、だいたい、こういう幸せって、すぐに何かが起こって、それもびっくりするような展開になって、破壊される、のが、最近の俺の人生のパターンだったから、俺は久しぶりに戻った幸せを感じつつも、これは幻なんだ、と自分に言い聞かせて、夜を泳ぐことになる。
© hitonari tsuji
深夜になると、さすがにテレビを見ることにも疲れたし、ワインもひと瓶空いてしまったので、どうしていいのか、分からなくなっていた。すると、アカリが、俺の方を見て、
「今日、泊まってっていい?」
と言い出した。
「え、ベッド一つしかないよ。いいけど、じゃあ、俺、ソファで寝る」
「一緒に寝ようよ」
「なんで、別れたんじゃないの?」
「別れても好きな人~」
どこかで聞いたことのあるようなフレーズを口ずさみ笑った。白い歯が眩しかった。嬉しかったけれど、許せなかったし、欲望も起きたけれど、悲しかった。
「じゃあ、シャワー浴びてくる」
アカリはそう告げると、立ち上がり、部屋を出て行った。
次号につづく。(個展中なので、うまくいけば明日、もしくは明後日)
※本作品の無断使用・転載は法律で固く禁じられています。
© hitonari tsuji
辻仁成、個展情報。
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パリ、10月26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」現在開催中です。
住所、20 rue de THORIGNY 75003 PAROS
地下鉄8番線にゆられ、画廊のある駅、サンセバスチャン・フォアッサー駅から徒歩5分。
全32点展示。残り数点になりました。
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1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。