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連載小説「泡] 第二部「夢幻泡影」第10回  Posted on 2025/10/16 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第二部「夢幻泡影」第10回 

   俺とアカリは、電気の消えた暗い部屋のベッドの上に並んで横たわっていた。窓は薄いカーテンがかかっているだけで、街の灯りの反射が天井に波のような揺らぎの模様を拵えている。ドキドキした。俺たちは、もちろんパジャマもないので、二人ともガウンを纏って薄い布団の中に潜り込んでいた。どうして、アカリが『一緒に寝よう』と言い出したのか、俺に分かるはずもなかった。ちょっと頭を傾けてアカリの顔を覗いてみると、目を大きく見開き天井を眺めていた。その横顔のラインはイラストのようにくっきりと浮き上がり、なぜか、薄く縁が発色しているようにも見えた。睫毛が瞬きをするたびに、その絵画のような静寂を破った。眼球に光が全て吸い込まれていくような内なる輝きをその球淵に留めている。ちょっと手を動かしたなら、俺の左手の先端がアカリの右手の指先に当たるに違いなかった。でも、どうしていいのか、分からず、手先に力が籠った。自分の心臓の鼓動が聞こえるかと思うほど、胸の中心が落ち着かなかった。これはもはや拷問のよう。愛されてもいないのに、同じベッドの中にいて、ガウンの下はお互いに裸で、いったいどうしたらいいというのであろう。まともな精神状態でいられるはずもなく、これは残酷な仕打ちでしかなかった。

連載小説「泡] 第二部「夢幻泡影」第10回 

© hitonari tsuji



   「アカリ・・・」
   とりあえず、名前を呼んでみることにしたが、声に出したというよりも、吐息に音声が混ざって、漏れたような声となった。
   「なに?」
   「あの、・・・ええと、こんな気持ちで寝れるわけねーよ」
   「そうね」
   「何、考えてた?」
   アカリの頭が傾いでこちらを向いた。二つの瞳の中心深くに青い炎が燻っている。ものすごく近い。吐息がかかりそうなところに小さなアカリの顔があった。
   「子供の頃のこと」
   「どんな?」
   「母親は働いておりいつもいなかったから、変なジジイと二人になると、その人が必ずわたしの身体に触ってきたのね、その時の光景とか、思い出していた・・・」
   俺は硬直した。
   「聞きたくないでしょ?」
   「・・・いや、話して楽になるなら、聞くよ」
   「話して楽になるわけじゃないけど、言いたくなったの」
   「無理するなよ」
   何に対して無理するな、と言ったのか、自分でもわからなかったが、無理するな、ともう一度、俺はたぶん俺自身に向かって言った。  
   「あの頃、毎日、苦しくて・・・、それを何で今、しゅうちゃんに話しているのか、分からない。でも、この話は誰にもしたことないよ。言えないじゃん。そのジジイはしつこかったし、気持ち悪かった。二人きりになると、必ず、手を引っ張られるから、母親がいなくなって、ジジイがこっちをじっと見つめてくると、トイレとかに逃げ込んでいた。でも、ずっと逃げられるわけもないし。そして、『出てこい』って、ドアを蹴られた。抵抗しても無駄だった。何度も母親に言いつけたんだけれど、それくらい我慢しなさい、と言われた。なんでって、思ったけれど、家がなくなるという恐怖があったから、我慢することになるの。でも、あのくそジジイ、どんどんエスカレートしていって、よく覚えてないけれど、いや思い出したくないだけなんだけれど、ある時、力づくで引き寄せられて、覆いかぶさってきて、闇の中に押し込められ、苦しくて、吐きそうで、必死で叫んだけれど、口塞がれて、生きたいけれど死んでしまいたくなって、たぶん、その人がわたしの初めての相手だったと思う。目をくりぬかれたような気持ちになった、・・・。早く終わらないかって、心をもみ消して、願っていた。でも、どんどん、エスカレートしていく。ますます、獰猛になって、日増しに、手が付けられなくなって、このままじゃ本当に死んじゃうと思って、その人をハサミで刺して、交番に逃げ込んだの。一生懸命説明をして、いろんな大人がやって来て、最終的に、保護されることになった。そこの家は失った。それは10歳の時だった。その後、心のケアみたいなことが長いことあって、最終的に、やっぱり、施設のような場所に戻されることになるんだけれど、わたし、そこもあわなくて、なんていうの、出戻りだったからさ、仲間外れみたいな感じになって、中学生の時に、逃げ出した」

連載小説「泡] 第二部「夢幻泡影」第10回 

© hitonari tsuji



   俺は必死で怒りと涙を堪え続けた。握りこぶしを作って、何かを耐えているのだけれど、その怒りも幻のように実態のないものになって、どこへ向けていいのか分からない空洞で怒りだけが何度も爆発を繰り返すのだった。
   すると、まもなく、アカリが半身を起こして、俺の方を振り返り、不意にガウンを脱ぎだした。淡い光の中にアカリの背中が見えた。見慣れた背中だったはずなのに、今まで一度も見たことが無い人の心の中のようにのっぺりと見えた。アカリはガウンを脱ぎながら、こちらを振り向いた。
   「しゅうちゃん、わたし、生きてる? ちゃんと生きているかな」
   アカリは全裸であった。まるでミルコのようなことを言いだした。俺は言葉に出来なかった。何も言えず、アカリをじっと見上げていたら、すると、冷たいものが落ちてきた。それは厚い雲を割って不意に降り注いできた雨粒のようで、ぴた、ぴたっと、俺の心を濡らしていった。
   「しゅうちゃん、わたしがまだちゃんと生きているのかわかるように、抱きしめて貰えない?思い出すとものすごく怖くて、自分が泡のように消えちゃいそうで、すっごい不安になる。消えないよね? わたしここでちゃんと生きているよね?」
   そう言いながら、アカリが俺の胸にしがみついてきた。言葉はなかったが、俺は両手でアカリを抱き留めた。温もりがあった。俺の10本の指先が、アカリの肋骨の中にめり込んだ。強く守ってあげたかった。この子が天に引っ張られ、消えちゃわないように、俺は何度も何度もアカリを強く抱き寄せこの世界に引き留めた。アカリは俺の胸に顔を押し付けて、怖いよ、とまるで子供に戻ったような感じで激しく泣きじゃくっていた。
   果てしなく深くて暗い夜だった。

 次号につづく。(個展会期中なので、ちょっとお待ちください)

  
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© hitonari tsuji



辻仁成、個展情報。

パリ、10月26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」現在開催中です。
住所、20 rue de THORIGNY 75003 PAROS
地下鉄8番線にゆられ、画廊のある駅、サンセバスチャン・フォアッサー駅から徒歩5分。
全32点展示。残り数点になりました。

1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。

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辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学
TSUJI VILLE



posted by 辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。