連載小説

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第11回  Posted on 2025/10/17 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第二部「夢幻泡影」第11回 

   どんなに苦しい状況に置かれていようと、人間という生き物には、生きている限り、そしてこの世がある限り、朝というはじまりが訪れる。俺とアカリのところにも新しい朝が平等に振り分けられ、やってきた。きっと、高層マンションの最上階なので覗かれることもないからであろう、薄いカーテンしかなかったから、この部屋もまた眩い光に満たされた。いつの間にか、抱きしめて寝ていたはずなのに、アカリは俺の横に移動し、俺の肩に額を押し付けて、寝ていた。しばらくの間、そのままにして、彼女が起きるのを待つことになる。しかし、間違いなくアカリは生きている。アカリの温もりを感じる。微かに寝息さえも聞こえてくる。昨夜聞かされた恐ろしいほどのアカリの幼少時代の物語とは裏腹に、そこにあるのは『幸福』だけであった。同時に、俺はますます、アカリのことを大切にしなきゃならないと思うようになっていく。なんとしても、この不幸な生い立ちのアカリを幸せに導いてやらないとならない、そのような使命さえ芽生えはじめていた。自分に出来ることはこの子を幸せにさせることじゃないのか。もしも、この子と家庭を作ることが出来たなら、俺は命がけで頑張ることが出来るのに、と思った。でも、そのためには、俺も生き方を変える必要がありそうだ。この街ではもはやまともに生きられないのだから・・・。その先行きは不透明であり、幸福の終着地点は遥か彼方に霞む幻のごとき夢に過ぎなかった。
   「なんだ、しゅうちゃん、起きてたの?」

© hitonari tsuji

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第11回 



   アカリが目を覚まし、寝ぼけ眼で、言った。
   「お前が起きるのを待ってた」
   するとアカリが笑顔になり、嬉しい、と言って、手を回して、俺の肩にしがみついてきた。別れたというのにこんな関係でいいのだろうか、と戸惑いながらも、アカリに抱き着かれて、ちょっと嬉しくもあった。
   「アカリね、夢見てた。なんかね、しゅうちゃんと暮らしている夢なの。しゅうちゃんがアカリのためにパスタ作ってた。アカリはなんかね、窓際で、編み物してたの。編み物なんかしたこともないくせにね。夢だから・・・。でね、後ろに大きな窓があって、そこから、波の音が聞こえてきた。キッチンでパスタを作るしゅうちゃんの背中を見ていたら、アカリ、嬉しくなって、口許が緩んだの。そしたら、どこからかね、赤ん坊が歩いてやって来て、ママ、って言ったんだよ。男の子だった。赤ちゃんなのにしっかりと歩いていたし、言葉もしゃべったので、びっくりしていたら、ママ、もうだいじょうぶだよ、って言ってくれたの。アカリ、嬉しくて、また泣いちゃった。でも、その子、わたしを見ていたんだけれど、それからふっと、燃え尽きた蝋燭の光のように、消えちゃったの。それで、びっくりして、目が覚めたら、ここだった」
   俺は身体を横に向け、アカリの背中に手をまわして引き寄せた。それは自然な行動だったし、アカリも抵抗をしなかった。二人とも裸だった。アカリが俺の胸の中に顔をうずめて、なんであんな夢を見たのかなぁ、と不思議がるように呟いた。
   「あ、わたし、仕事に行かなきゃ。今、何時? 今日、午前中に大事なオーディションがあったんだ」
   「じゃあ、朝食でも作ろうか? お前が準備しているあいだに」
   「うん。嬉しい」
   アカリがシャワーを浴びて準備をしているあいだ、俺はキッチンで朝食を作ることになる。アカリの好物のオムレツを作ってやることにした。着替えてきたアカリは、急がなきゃ、と言いながら、オムレツを頬張った。まるで、先月とか、先々月とか、昔の俺たちみたいだった。とはいっても、2週間前までは毎日こんな感じだったのだ。不意に、時計の針が巻き戻されたような不思議な安寧の中にあった。
   「じゃあ、行ってくる。夜、ここに戻って来てもいい?」
   「え、何、言ってんの? 俺たち別れたんでしょ?」
   「でも、しゅうちゃん、今はこの辺うろうろできないから、わたしが何か買ってくる。オーディション、遅くても夕方には終わるから、その後、デパ地下にでも寄って買い物する。今日はお惣菜とかしゅうちゃんが好きな太巻きとか食べようよ。お金はたくさんミルコさんに貰ってるから安心して」
   俺は返事が出来なかった。

© hitonari tsuji

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   「とにかく、間に合わないから、行きます。あとで、LINEするね」
   「おけ」
   アカリはそう言い残すと、バックを掴んで、出て行った。あっという間の出来事だった。昨夜聞かされたアカリの過去、そして、今日の朝の幸福、この二つの光と闇の落差が激しかった。俺は食器を片付けながら、やはりいつもの奇妙な鼓動の中にあった。
   静寂が戻った。一人、ポツンとそこに取り残された俺は、アカリの温もりを反芻しながら、一瞬の幸福を何度も何度も思い返しては怠惰な日中を過ごすことになる。トレーニングルームに行き、汗を流しながら、昨夜、聞かされたアカリの悲しい生い立ちについても考えていた。出来ることなら、俺が守ってやりたい、と思いながら、ランニングマシーンの上を走った。必死で走った。くそ野郎、と俺は声を張り上げながら、ベルトの上を全速力で走り続けるのだった。
   けれども、夜になっても、アカリから連絡はなかった。全自動洗濯機の中から、乾燥を終えた自分の衣服を取り出して着替えた。やることがないので、冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出して呑み、時間をやり過ごした。携帯の「探す」モードで調べてみると、アカリの位置を示す青い丸が、この周辺を移動している。ともかく、オーディションが長引いているのかもしれない。俺は悩んだ挙句、LINEで『どう?』と一言だけメッセージを送ってみることにした。しかし、いつまで待っても既読にはならない。嘆息がこぼれた。
   結局、アカリは戻ってこなかった。ワインなんかを飲みながら、ずっと待っていたが、連絡は無し。俺はそのままソファで寝てしまうことになる。次に目が覚めたのは、昼のちょっと前であった。携帯を掴んで、アカリの居場所を確認すると、エアタグは少し離れた場所で、停止している。そこはどこだろう、と調べてみると、神社の裏手の飲み屋と住宅が混在する、特に何も特筆すべきものがない地区だった。なんで、そんなところにいるのだろう? 俺はソファに座り直し、眉間に皺を寄せ、考えを巡らせる。アケミの実家かもしれない。そうだ、アケミの実家だ。でも、戻って来る、と言ったじゃないか。少し不安になった。もう一度、LINEで、『待っていたんだけれど、何かあったのか? 大丈夫か?』とメッセージを送ってみた。けれども、既読にはならない。くそ、と俺は毒づいた。舌打ちをした次の瞬間、ドアベルが鳴った。次にドアの施錠が鍵で解除される、がちゃがちゃという金属の鈍い音が続いた。俺は立ち上がり、恐る恐るリビングを出て玄関ホールを覗き込んだ。廊下の突き当りに、ミルコがぽつんと立っていた。

次号につづく。(個展期間につき、月曜の早朝に次号アップできると思います)

  
※本作品の無断使用・転載は法律で固く禁じられています。

© hitonari tsuji

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辻仁成、個展情報。

パリ、10月26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」現在開催中です。
住所、20 rue de THORIGNY 75003 PAROS
地下鉄8番線にゆられ、画廊のある駅、サンセバスチャン・フォアッサー駅から徒歩5分。
全32点展示。残り数点になりました。

1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。

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辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学
TSUJI VILLE



posted by 辻 仁成

辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。