連載小説

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第15回 Posted on 2025/10/24 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第二部「夢幻泡影」第15回 

   高沢育代が一階に降りた隙をついて、建物の反対側にある階段から二階へと駆け上がり、半開きのドアをあけて、勢い中に飛び込んだ。思ったよりも間取りは広そうだった。玄関を入るとすぐリビングルームになっていたが、部屋の照明は薄暗く、キッチンはあったが、何も置かれていなかった。電化製品もほとんど見当たらない。まったく生活感のない空間だった。俺は土足で中に押し入り、奥のドアを押し開けて部屋を覗くと、アカリはつきあたりにある大きなマットのようなものの上でほぼ全裸状態で寝転がっていた。傍にあるミニテーブルの上に食べかけのパンや飲み物が広げられてある。手は縛られておらず、口もテープで塞がれているわけではなかった。アカリは俺に気が付き、驚いた顔をしながらも、慌ててタオルケットで身体を隠し、しゅうちゃん、と言うなり、半身を起こした。
   「何やってんだよ、お前、そこで?」
   「しゅうちゃんこそ、どうしてここに? え、なんで?」
   アカリはキツネにつままれたような顔をしている。携帯を取り出し、SMSに送られてきた、縛られ横たわるアカリの写真を突き付けてやった。
   「何?これ。え、どうなってんの?」
   「それはこっちの台詞だろ。なんでお前裸なんだよ。なにしてんだよ」
   「え、仕事・・・」
   「仕事? ふざけんなよ。ニシキと名乗る送付先からこの写真が送られてきて、そこに、お前を監禁したって書かれてあった。・・・で、事務所に謝りに来いって、なんかおかしいと思ったからさ、エアタグで調べたんだよ。そしたら、・・・」
   「あ、エアタグ」

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第15回

© hitonari tsuji



   「じゃあ、送り主はニシキじゃねーんだな。くそ野郎、これ、AIか何かで作った偽造写真ってことか?」
   ドアが閉まる音がした。慌てて振り返ると、第三の女がナイフのようなものを握りしめ、戸口に立っている。目が異様に吊り上がり、もはや鬼のような形相だった。
   「つまり、お前か、この写真を捏造したのは? なんのためにだ?」
   女は何かが憑依したような奇妙な顔になった。笑っているとも、怒っているとも、壊れていくような、その表情には、哀れな人間の軋んだ心が映し出されている。尋常な精神状態ではない。化けの皮が剥がれ、本性が表に滲み出している。何者か、分からなかったが、もはやそんなことはどうでもいい。今はこいつを制圧するためにどう行動すべきかだけを考える時だ。刃先の鋭いナイフは、登山ナイフのようだった。
   「そっか、そういうことか・・・。ニシキの事務所にのこのこ出かけて行ってたら、今頃、死んでたな。それをお前が計画したってことかよ」
   「え、ちょっと。ちょっと、しゅうちゃん、どういうこと?」
   アカリが割り込んできた。
   「邪魔をするな!」
   女が震える声で叫んだ。殺気立ち、恐ろしい形相をしている。理由はよくわからないが、どうやら、この偽監禁事件を裏で操っていたのは、この女ということになる。ナイフの先が俺に向かっている。まずは、この女を叩きのめすしかない。どうやって排除すべきか、チャンスを探った。
   「あんた、高沢育代って言うんだろ」
   女は鼻で笑い、そんな名前はもうどうでもいいんだよ、とすごんでみせた。
   「高沢育代はとっくに死んでる」
   「わかったわかった、もういいよ。もうやめろ。お前が誰であろうと俺にゃ関係ねー。叩きのめして、警察に突き出してやる。そうすればお前が誰かなんてすぐにわかる」
   「叩きのめす? ダメ!」
   アカリが飛び出し、二人の間に割って入った。タオルケットが外れて、アカリは素っ裸になった。

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第15回

© hitonari tsuji



連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第15回

   「警察とかダメ」
   「高沢さん、あんた、なんで、アカリや俺にわざわざ近づいて、こんなことした? 監禁はでっちあげだったにしても、そういう凶器で脅すってのは、立派な犯罪だからな」
   女は登山ナイフを腰の低い位置に構え、今にも飛び掛かりそうな態勢をとった。じりじりと間合いを詰めてくる。
   「お前はここで死ぬ。アカリはここに残る」
   「完全にいかれてんな」
   「アカリ、こっちに来なさい」
   高沢育代がアカリに向かって、そう言った。命令するような口調だった。しかし、アカリは返事を戻さなかった。迷っているように感じた。俺は一瞬、アカリの横顔を睨みつける。
   「アカリ、こっちに来るんだ!」
   第三の女が強い口調で言った。
   「アカリ、どうした?」
   「あの、・・・しゅうちゃん、お願いがあるの。高沢さんには手を出さないで」
   アカリの口から、意外な言葉が飛び出し、俺は驚いてしまう。高沢さんには手を出さないで、とはどういうことか・・・。
   そこにいるのは、いつもの能天気なアカリではない。真剣な表情の、俺の知らないアカリだった。
   「先生も落ち着いてください。しゅうちゃんは私の大事な、ええと、今は、友だちですけど、大事な友だち。とりあえず、二人とも、ことを荒げないで」
   「先生? なんだ、先生って。こいつ、何の先生なんだ? ナイフで人を脅す先生なんかいるものか?」

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第15回

© hitonari tsuji



   「・・・わたしが子供の頃に過ごした施設の先生なの。わたしのことをあの当時、唯一、大切に、まるで自分の子供のように扱ってくれた、母親みたいな人、だから、しゅうちゃん、お願い・・・」
   俺は高沢育代を睨みつけた。女は僅かに視線を逸らした。
   「小さかったから当時の記憶ははっきりしないんだけれど、わたしが次の施設に出戻った時、高沢さんから連絡があって、実際、新しい施設にも来てくださって、ずっと心配してくれたし、支援もしてくれた。誰一人信じることが出来ない世界だったけれど、わたしにとっては灯台のような人だった」
   アカリが俺と高沢育代とのあいだに立ちはだかった。
   「アカリ、子供の頃の恩があるにしても、残念だが、こいつ、普通じゃないぞ。ナイフを振り回すようなおかしな人間だし、心がバラバラだ。お前は知らないと思うが、タキモトもミルコも存在しない。この女の一人芝居なんだよ」
   「一人芝居?」
   アカリが、意味がわからない、という顔をしてみせた。
   「この人が男装をしてタキモトになり、メイクをしてミルコになる。もっとも、その中心に、苦情係の時代に出来た心の問題があって、そうせざるを得なかった。仕事のストレスからの心の分裂だったわけだから、別に、それはしょうがないにしても、でも、悪いことは言わない、これ以上、こいつには関わるな」
   「タキモトさんが先生? しゅうちゃん、しゅうちゃんこそ、大丈夫?」
   「このあいだ、タキモトを問い詰めたら、上着を脱いで自分が女であることを白状した。そしたら、ミルコもタキモトも自分の分身だって、こいつは言った。言ったろ、はっきりとアカリに説明したらどうなんだ」
   「アカリ、こっちへ来なさい!」
   女が怒鳴り声を張り上げた。俺は構わず、続けた。
   「別に、同情出来る話だったから、俺はそれでいいと思っているし、お前が今言ったことが真実なら、この人は、アカリにとっては大事な人なんだろう。ただ、はいそうですか、じゃあ、それでいいね、とはならねーよな。実際、見てみろ、こういう物騒なものを振り回してるし、それより、ひでーのは、俺をニシキと戦わせようと仕向けた。こいつは頭がおかしい」
   俺は高沢育代を睨みつけた。全てを仕組んだのはこの女だ。
   「この女の中に悪魔か鬼がいるのは間違いない。冷静に考えても、お前はこいつから離れるべきだ」
   「しゅうちゃん、タキモトさんはちゃんと存在するよ。ミルコさんも。先生がミルコさんに今の事務所を紹介してくれたんだし、タキモトさんと先生は仲がいいし」
   「あのな、アカリ、いねーよ。お前は錯覚してるだけだ。こいつら、心はそれぞれバラバラでも身体は一つしかない。つまり、三つ首の怪獣みたいな存在なんだよ、騙されるんじゃない!」
   すると、次の瞬間、隣の部屋のドアがゆっくりと開いた。驚き、身構えると、その向こう側から、静かに、闇を突き破るように、タキモトが姿を現したのだった。

次号につづく。(続きはどうでしょう?個展次第です)

  
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辻仁成、個展情報。

パリ、10月26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」現在開催中です。
住所、20 rue de THORIGNY 75003 PAROS
地下鉄8番線にゆられ、画廊のある駅、サンセバスチャン・フォアッサー駅から徒歩5分。
全32点展示。残り数点になりました。

1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第15回

辻仁成 Art Gallery



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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。