連載小説

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第16回  Posted on 2025/10/25 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第二部「夢幻泡影」第16回 

   俺は固まり、息が出来なくなった。見開いた目は理解不能な現実世界のせいで瞬きさえできずにいる。奥の部屋から出て来たのは、確かに、タキモトだった。眼鏡の淵に淡い光が宿り、レンズの奥で切れ長の目が撓っている。でも、その横で、高沢育代が吊り上がった細い目で俺を睨み、今にも飛び掛かりそうない勢いでナイフを構えている。あの日、タキモトが麻のシャツを脱いでこの第三の女になった瞬間のことは克明に覚えている。その後、確かに出現した女は自分がタキモトであり、ミルコだと言い張った。その女が言ったいくつかの言葉が頭の中で渦巻いている。
   『まず、タキモトはこの世に、生きていません。そのことは前にも言ったと思います。そして、私も、死んでいるのか、生きているのか、分からない存在だということも言いました』
   その別の時、同じようなことを繰り返している・・・。
   『タキモトはいない。そう、その通り、でも、もしかすると、ミルコもいないかもしれない。わたしは自分が誰か、疑わしい。タキモトが、わたしが生み出した幻だとすると、このわたしもまた、この世にいない人間かもしれないのだから・・・』
   『わたしからのお願いは一つ。アカリさんにこのことを伝えて、タキモトから離れるよう説得してもらいたい。そうじゃないと、ミルコが何か起こしそうで怖い』
   『あなたが激しく混乱をするのは分かりますよ。でも、非常にわかりにくいかもしれませんが、一つの身体、一つの脳、に3つの心が同居しているわけですから、ある瞬間に、スイッチが入り、主体が入れ替わることも実際あります』
   俺の頭の中で、様々なミルコが語りだしていた。

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第16回 

© hitonari tsuji



   ・・・こいつらは幽霊か、それとも、妖怪かもしれない、と俺は心の中で吐き捨てた。だとしても、俺はアカリを守ってみせる。俺がやるべきことは、もし出来ることなら、この混沌から二人の幸せを取り戻すことなのだ。
   俺はアカリの腕を掴むと、自分の方へ向けて力強く引っ張った。そして、アカリが巻き込まれないよう、俺の後ろに隠した。タキモトが逆に一歩、俺の前へと踏み出し、おとなしい口調でこう告げた。
   「しゅう君、この通り、わたしはここにいる」
   そこにいるのは、物腰も柔らかく、その喋り方も佇まいも、何度か対面したことのあるタキモトその人であった。いったい、これはどういうことだ。もしも、これが、つまり、俺が見ているこの現実が全て悪夢だとするならば、・・・。醒めない悪夢のようなものの中に俺は知らず知らず迷い込んでしまったのかもしれないのだから。
   しかし、今この瞬間、俺の目の前に高沢育代とタキモトが同時に存在している。つまり、一人じゃなかった、ということになる。
   「タキモトさん、この目が血走った女より、あなたの方がうんと話が通じそうだから、聞くけど、これはいったいどういうことなの? この間、あなたは麻のシャツを脱いで、第三の女、つまり、高沢育代なのかな、ともかく今までこの物語には登場しなかった人物になった。その時のタキモトはどっち? そして、そこに出現した第三の女は苦情係での辛い人生を語りましたよね・・・。あれは、つまり、誰の人生?」

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第16回 

© hitonari tsuji



   タキモトはゆっくりとナイフを構える高沢育代を振り返ってから、嘘じゃないよ、それは真実だ、と告げた。
   「わたしは画家のタキモトで、昨日から今日にかけて、ずっとアカリさんの絵をここで描いていた。だって、あのマンションには君がいるからね、あそこじゃ描けないじゃないか。アカリさんに無理を言って、ここに来てもらい、いつものように裸になってもらい、描いていたんだよ」
   俺は素早くアカリを振り返る。裸のアカリが、
   「そうなの、だから電話に出られなかった、メッセージは読んだけれど、仕事中だったから」
   と弁明した。仕事中? 
   「じゃあ、あなたの隣にいるナイフを握りしめたこの女は誰ですか?」
   「高沢育代だよ」
   「じゃあ、今朝、あのマンションにやってきたミルコは誰なんだ? 俺に、アカリが監禁されていると言いに来た奴、あんたか?」
   タキモトが柔和に微笑んでみせてから、物静かに告げる。
   「それはこの人だ」
   隣にいる高沢育代を顎でしゃくって指した。
   「じゃあ、ミルコはこの人なんだな。じゃあ、タキモトであるあなたは誰?」
   タキモトの口許が緩んで、笑い出しそうになった。でも、それを堪えると、この前と同じように、頭に手を持っていき、俺とアカリの見ている前で、カツラを外して見せた。さらに眼鏡を外し、それをマットの上に放り投げると、その下からもう一人の女が出てきた。高沢育代にそっくりな見目形をしている。背格好も、顔の骨格も、瓜二つとは言わないまでも、同じ遺伝子をわけあった人間だということが分かる。俺の背後で、アカリが、えええ、と声を張り上げ、
   「どういうこと? タキモトさん、じゃ、ないの?」
   と、驚きを口にした。

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第16回 

© hitonari tsuji



   「いいや、タキモトだし、わたしもミルコだ。そして、妹の育代もタキモトになるし、ミルコになることもある。今朝、しゅう君、君が会ったミルコは育代だ。ちょっと雰囲気がいつもと違ってなかったかい?」
   「・・・なるほど、だから、様子が変だったわけだ。冷たく、人間味もなく、つっけんどんとしていたし、柔和なものが一切感じられない、まるで別人のようなミルコさんだった」
   「その通り。まだ、ミルコ核のレベルには達してない。ミルコではあるけれど、完成度の低いミルコと言えばいいのかな。この子は、昔から粗雑で、荒々しい人間だからね、アカリ以外の人間にはとっても冷たい。わたしが押さえないととんでもないことをしでかす。君に、監禁の写真を送ったのも育代だよ。わたしたち二人は、外見はこの通り似ているが、内側がまるで違う。考え方も行動も異なる。一応、わたしが姉で、育代は妹なんだよ」
   「え、何の話? しゅうちゃん、これどういうことなの?」
   アカリは事情を知らないようだった。
   「デパートの苦情係をしていたのはわたしで、妹は施設で働いていた。でも、わたしたちは時々、その役割を入れ替わったりして、人生の辛さを分け合ったりもしていた。実はわたしたちもアカリと一緒で、親に恵まれていなかったから、二人で力を合わせて子供時代を過ごした。わたしが育代の父親になることもあったし、育代がわたしの母親を演じることもあった。欠けたものを補い合って二人はずっと生きてきた。そのうち、わたしたち二人はそれぞれの立場が苦しくなると、入れ替わって、別の人生を経験し、気を紛らわせるようになっていく。あれは遊びの一つだったのかな。実は、絵の才能があるのは、わたしよりも育代なんだ。わたしは育代が描いた贋作を売る方がむいているかもしれない。もちろん、わたしも絵は描く。そうやって、実際、二人で絵を完成させてきた。それぞれに得意な分野というのがあって、たとえば、肉体のラインを描くのはわたしのほうが得意で、顔の細部、とくに表情の陰影を描くのは育代の方が才は際立っている。藤田嗣治の絵だと、わたしは藤田の猫の絵が得意で、育代は初期の風景画が得意だったりする。でも、それぞれの分野に才能があって、補うような形で贋作品を仕上げてきた。そうそう、特に、アカリさんの裸婦像は完全に二人の合作なんだよ」

次号につづく。

  
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© hitonari tsuji



連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第16回 

いよいよ、日曜日までとなります。
辻仁成、個展情報。

パリ、10月26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」現在開催中です。
住所、20 rue de THORIGNY 75003 PAROS
地下鉄8番線にゆられ、画廊のある駅、サンセバスチャン・フォアッサー駅から徒歩5分。
全32点展示。残り数点になりました。

1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第16回 

辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学



posted by 辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。