連載小説

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第17回  Posted on 2025/10/27 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第二部「夢幻泡影」第17回 

   「ともかく、育代、そんなものは物騒だから、仕舞いなさい」
   育代の姉だと告白した第四の女が、第三の女が握りしめる登山ナイフへと手を伸ばし、それを下げさせようとした、しかし、その次の瞬間、高沢育代が不意にそのナイフで、自分の片割れのような姉の腕を切りつけた。意図して切りつけたというよりも、興奮した肉体が反発し、姉の手を振り払おうとしたら、刃先が姉の腕を切り裂いたような事態であった。血が噴き出し、アカリが大きな悲鳴を張り上げた。動転した高沢育代がナイフを掴み直した。
   「全部、お前のせいだ。アカリは誰にも渡さない!」
   目が血走った女が俺に向かって突進してきたので、俺は身を翻し、その勢いで女の手首を掴むと、自分の体重を載せる格好で壁へと一緒に激突した。常軌を逸した高沢育代は手の付けられない獰猛な犬のごとく暴れだしたので、落ち着かせるために、俺はその頭部を右肘で叩きのめすことになる。鈍い音がした後、高沢育代から力が抜け落ち、そのまま、床に崩れ落ちてしまった。アカリの悲鳴が室内に響きあたる。俺は転がったナイフを掴んで、マットのシーツを引き裂いていった。
   「アカリ、ボケっとしてないで早く服を着ろ。救急を呼ぶぞ」
   「しゅうちゃん、でも、あああ、先生が!」
   「とにかく、早く服を着るんだ!」
   俺はナイフを自分のズボンのポケットに仕舞った後、引き裂いたシーツで、血があふれ出す第四の女の腕を肘の付け根で強く縛り、止血した。
   「救急車を呼べ。早く! 急げ!」

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第17回 

© hitonari tsuji



   シャツを頭からかぶりながら、アカリが携帯を掴んで、
   「どうすればいいの? やり方が分からないよ」
   と震えながら叫んだ。俺は立ち上がり、携帯を奪いとると、サイドのボタンと音量ボタンを使って、緊急SOS機能を作動させた。SOSと描かれたスライダーが表示されたので、それを横にスライドさせ、119へと発信した。
   「救急隊員がやってくるからな、その恰好でいいのか? 急げ!」
   とアカリに指示した。消防センターにつながり、係員が、どうしましたか、と告げたので、
   「ナイフで女性が切られ出血しています。一応、布切れを使って止血しました。すぐに救急を派遣してください。ちょっと待って、位置情報を設定するから」
   と冷静に事態を説明した。さらに、俺はアカリの携帯の設定アプリから緊急SOSに行き、位置情報を共有、とした。さらに、グーグルマップを開いて、そこにあるマンション名と住所、部屋番号を再度、伝えることになる。
   「二階202号室、ドアはあいています。一人は腕を切られ、もう一人は側頭部を殴打した模様で倒れています。大至急、お願いします」
   「あなたはどなたですか?」
   「彼女らの知り合いです」
   俺はそう言うと、携帯を切り、アカリにそれを放り投げた。
   「俺はここにいない方がいいから、後はお前に任せた。たぶん、手加減したから、こいつは気絶しているだけだ。あとは救急隊員に任せておけ。この二人が喧嘩になった、とでも言っとけばいい。とにかく、早く服を着て、救急隊員の到着を待て。また、連絡する」
   「しゅうちゃん!」
   「心配するな。でも、アカリ、俺は今でもお前のことを大切に思っている。どちらにしても、この二人には心のケアが必要だからな!」

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第17回 

© hitonari tsuji



   俺は言い残し、マンションを急いで後にした。遠くに高層ビル群の赤いライトが見えた。今日も夜空で明滅している。数分もすると遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。サイレンの音から遠ざかるように方向を変えながら歩いた。そして、これまでの出来事を時系列に沿って心の中で整理することになる。
   『タキモトはいない。そう、その通り、でも、もしかすると、ミルコもいないかもしれない。わたしは自分が誰か、疑わしい。タキモトが、わたしが生み出した幻だとすると、このわたしもまた、この世にいない人間かもしれないのだから・・・』
   ミルコに声をかけられた時、あの夜のバーでの出会いから今日までのことが影絵絵巻のように脳裏を過っていった。それは夢のようであり、幻のようであり、泡のようであり、影のようでもあった。このすべての出来事は、アカリがその袂に居たことに端を発している。アカリの生い立ちが、数奇な運命によって紡がれ、今日の出来事まで綿々と続いている。俺がアカリと出会うよりもずっと以前からこの物語は始まっており、あの二人の姉妹がそこに深くかかわり、このカゲロウのごとき運命を築き上げていた。けれども、実際はよくわからない。あの妹の方はアカリを自分のものにしたかったのかもしれない。なぜ、俺のことがそこまで邪魔だと思ったのか、わからない。タキモトが暴走しはじめた、とあの日、女の片割れが俺に語った。姉の方はその暴走を恐れていたのかもしれない。でも、もっと何かがあるかもしれない。あるいは、ただ異常なだけの、もっとシンプルな話なのかもしれない。けれども俺なんかに分かる話でもない。降りかかる火の粉を払いのけるのが、俺のルールだった。

連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第17回 

© hitonari tsuji



   路地をいくつか曲がって、大通りに出たところで、俺は不意に行く手を塞がれてしまった。顔をあげると、目の前にどこかで見たことのある連中が立っていた。一人が携帯で、誰かと通話している。考え事をしていたせいで、どうやら俺は危険地帯に迷い込んでしまっていた。3人の半グレが、俺の目の前を塞ぎ、睨みつけてきた。
   「今、ロフトの前でしゅうを見つけた。すぐに応援を頼む」
   端の半グレが俺をじろじろと見ながら携帯で誰かに応援を要請した。くそ野郎。俺は隙を与える前に、行動に出る必要があった。逃げ場を失う前にここから脱出しないとならない。すかさず、一番手前にいる奴の股間を力の限り蹴り上げ、その横にいたやつの肩を掴んで、側頭部を殴りつけた。倒れた奴が置きあがり俺の腰に手を回してきたので、そのままねじ伏せ、馬乗りになると、握りこぶしを数発顔の中心に叩き込んでやった。携帯で状況を説明していた奴が怯んだので、逃げ出す後ろから突き飛ばし、もう一発蹴りを見舞ってやった。俺はいつものごとく酔った人々の中へと紛れ込み、逃げ込んだ。やつらが一斉に動き出した。どの方向へ逃げるべきか、考えながら逃走をしたが、路地の遥か先、人々の頭越しに、奴らの仲間の姿が見えたので、俺は向きを変え、若い連中で溢れかえる真夜中の歓楽地を突破することになった。

次号につづく。

  
※本作品の無断使用・転載は法律で固く禁じられています。

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。