連載小説
連載小説「泡」第二部「夢幻泡影」第18回 第二部了 Posted on 2025/10/28 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第二部「夢幻泡影」第18回
俺は走った。とにかく走って走って、この状況を突破するしかなかった。そして、俺は今夜もこの街の孤独な弾丸であった。繁華街の中心にある広場に飛び出すと、四方の道から次々に輩たちが飛び出してきた。腕には自信があっても、この数には到底叶わない。絡みついて来る奴を一人一人つきとばし、或いは叩きのめしながら、酔っ払いたちがうろうろと徘徊する裏路地へと逃げ込んだ。ネオンライトが眩く輝くせいで、夜なのに昼間のようで、隠れる場所などない。背後から、怒声が聞こえてくる。奴らをやり過ごすために、ビルとビルの僅かな隙間を、駐車場の金網を乗り越え、酒の匂いと人々の騒音渦巻く横丁を突き切り、箒やゴミ袋や段ボール箱などが散乱する入り組んだ路地へと逃げ込んだ。男たちの「あっちだ」と叫ぶ声が四方八方から聞こえてくる。くそ野郎。ここで捕まったら、俺は間違いなく、フルボッコにされてしまう。なんとしても、ここを突破しないとならない。「あっちだ、あそこにいる!」くそ。薄暗い道へと逃げ込むが、そこは火入れ看板がぽつんぽつんと並ぶ袋小路だった。まもなく、追いかけてきた連中が次々来た道を塞ぎだした。先頭にいたのは、俺が顔を引き裂いてやったヒロトの相棒、マエバトだ。一メートルほどの鉄パイプを握りしめている。獲物を追い詰めた狩人が白い歯を見せつけるようにして高笑いし、
「しゅうさんよー、もー、逃げられねー、行き止まりだ。この傷、見ろ、一生消えねーんだよなー、このお返しに、おめーのそのかっこいい鼻を削ぎ落してやるからよ。覚悟しとけ! このくそ野郎がァ」
と街中に轟くほどの大声で叫んだ。
「ビビってるのかよ、こら、へなちょこ野郎が」

© hitonari tsuji
俺は冷静に周囲を見回す。閂がかけられてあるが薄っぺらい引き戸が真横にあった。板の隙間に微かな光が見える。その向こうがどうなっているか、分からないが、建物の中には人の気配があった。そこしか、突破できそうな場所は他にない。勢いをつけて、蹴とばした。ドアがひん曲がったので、イチかバチか、肩から体当たりをし、そのドアを破った。勢いのまま中へ突進すると、その先に飲食店の厨房があり、外国人とみられる褐色の肌の料理人たちがフライパンを握りしめ、燃え盛るガスコンロの上で調理をしていた。騒ぎ出す料理人たちのあいだを素早く潜り抜け、皿やグラスを蹴散らしながら、客が屯するカウンターを飛び越えた。人々の悲鳴や怒号の中、外の路地へと再び飛び出すことに成功をした。遠くで、マエバトの叫び声が聞こえた。俺は弾丸のように、夜の歓楽街を駆け抜け、走った。走った。走り抜けた。電信柱をよじ登り、低層の建物の屋根を伝い、狭いコンクリート塀の上を走った。死に物狂いで走った。
「あっちだ、あっちだ~!」
俺はバラックのような居酒屋が密集する地域の屋根を飛び越えた。半グレの数が増えていく。屋根から屋根へと飛び移り、ゴミであふれる集積車の上へと飛び降り、そこから転がり落ちるようにして、再び地上に着地すると、無になって走りだす。黒服たちが屯するクラブが密集する地域を駆け抜けた。地回りたちが縄張りにする歓楽地のど真ん中をも抜けた。このまま、この先にある巨大駅まで走りきれば、交番もあるし、駅の改札に入ることが出来、運がよければ電車に飛び込むことも出来る。走った。若い大学生たちが数十人、何かの打ち上げの後であろう、メイン通りを占拠していた。その中心に、魚雷のように突っ込んでいった。
「どけ! どけ! こら、どけ!」
俺は叫びながら、その中心を駆け抜けていた。半グレたちとその若者の集団がぶつかり、大騒ぎとなった。警笛が聞こえた。警官が数名、検問のようなことをしていた。走りながら背後を振り返ると、警察官と半グレたちが揉み合っていた。俺はそのまま、路地を曲がり、再び、狭い居酒屋街を全速力で駆け抜けた。警笛が鳴り響く、この周辺を警邏しているパトカーの上に飛び乗り、ライトが明滅しているその屋根の上から、振り返り、振り返り、逃げる場所を見定めた。

© hitonari tsuji
「おい、お前、何してる~!」
眼下で警察官が怒鳴り声を張り上げた。マエバトがこちら目掛けて突進してくるのが見えた。
「ボケっとしてないで、あいつら取り締まれ、くそ野郎!」
俺はパトカーのボンネットに飛び降り、反動を利用して、地面に着地すると、そのまま駅を目指した。
サイレンが鳴った。
「くそ野郎!」
俺を追いかけてきた連中が警察に呼び止められている隙に、俺は地下道の入り口へと飛び込んだ。くそ野郎、掴まえてみろよ、と俺は腹の底から叫び声を張り上げながら、走った。走った。俺は走った。弾丸のように走った。地下通路を巨大駅へと向け全速力で走り続けた。全速力だ。これまでの怒りが俺のエンジンだった。くそ野郎。人々をかき分け、障害物を飛び越え、駅の改札へと向かった。構内に入ればなんとかなる。ところが地下道の巨大な交差点の反対側から、不意に数名の男たちが回り込み、行く手を封鎖したのだ。俺は慌てて立ち止まり、逆戻りを試みるが、その地下通路の先からも、マエバトたちがやって来るのが見えた。地下交差点の中央で仁王立ちし、くそ野郎、と叫び声を張り上げた。一瞬、その視線の先に、佇む、見覚えのある男がいた。仙人だった。瞬間の出来事だったが、真空を感じた。仙人が指さす方、小さな地下道へと踵を返し、再び俺は走り出した。意味もなく目的もなく泡のように大勢の若者が屯していた。そいつらとぶつかり、俺は転んでしまう。起き上がろうとした時、誰かが俺の腹部を蹴り上げた。目に眼帯をしていた。ヒロトだ。屯する若者たち、追いかけてきた半グレたちがもみくちゃに混ざり合い、騒然となった。俺は反撃した。ヒロトの残された方の目にこぶしを見舞ってやった。しかし、次の瞬間、マエバトの鉄パイプが俺の背中を直撃し、激痛が駆け抜けた。男たちがどんどん、どんどん俺に体当たりをしてきたので、取り押さえられるような恰好で、コインロッカーにそのまま押し付けられ、激突してしまう。勝てる相手じゃなかったが、やるしかない。マエバトが、さらに鉄パイプを振り下ろし、俺の左腕に命中した。左腕から力が抜け落ちる。地下交差点は大騒ぎになっていたが、俺の視界は薄れていった。警笛が聞こえた。倒れ込んだら、フルボッコになる。俺は殴られても必死で踏ん張り、一人一人を殴り返していったが、奴らは水たまりに出来ては消えていく泡のごとく、次々に現れ、もはや溢れ出していた。男たちの拳をサンドバックのように受け止めることしか出来なかった。奴らが俺の腹部や背中や身体中を蹴とばしていった。俺は自分を守るために両腕で頭部と首を守った。俺は自分が死ぬことを理解していた。意識が遠ざかる中で、アカリのことを思い出した。アカリの笑顔、アカリの瞳、・・・俺が愛した女はアカリだけだった。アカリと幸せになりたかった。一緒に家族を作りたかった。笑顔のかわいいアカリの顔が闇のように消えかかる脳の深部に、風前の灯のごとく揺らめいて光っていた。音が消えた。霞む視界の先にマエバトが仁王立ちした。荒い息をつきながら、
「しゅう、お前は俺が仕留めてやる!」
と叫んだ。

© hitonari tsuji
頭部から滴り落ちる赤い血のせいで、もう、目がほとんど見えない状況だった。俺は地下道の壁に背をつき、辛うじて立っていた。ズボンの裏ポケットに高沢育代の飛び出しナイフがあったことを思い出し、それを探し当てた、マエバトが鉄パイプを振り上げたので、その塊が俺の頭部を叩き割る前に、刃先をマエバトの中心に向け、最後の力を振り絞って、突っ込んだ。登山ナイフはマエバトを貫いた。滑るような血の感触だけが俺の残された神経に絡みついてきた。ウおおおお~、とマエバトの胴間声が響き渡った。俺の顔が返り血に染まっていった。警察官がその暴動の中へと飛び込んできて、半グレたちが逃げ出し、大騒ぎする若者、通行人が一緒くたになって、そこはこの世の地獄、カオスと化した。音は消えさり、俺の意識も次第に遠ざかっていた。俺はついに地面に倒れ込んだ。もう光さえ感じなかった。消えていく意識の中にも、アカリが、いた。自分の心臓音が鼓膜を叩いていた。死の淵が見えた。アカリ、アカリ、俺はアカリの名前を叫んでいた。
「アカリ~!」
血と怒号の世界で、消えゆくアカリの笑顔を、最後の意識の末端で、俺はなんとか捕まえようとしていた。
第二部、了。 (第三部へと続きますが、それは数日後以降から)
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。

